巌流島は「新格闘技ツクール」。誰もがプレーヤーであり、主役なのだ
お題………大好評! 9・2巌流島ADAUCHIの総括と裏側
「巌流島も所詮ほかの格闘技と同じ」という意見がある。
私は格闘技の技術的なことは知らないので、テクニックや実戦の概念などは他の方々にお任せするとして、要は「現状維持」か「現状打破」かというのが論点だと思う。
これはもう個々のフェチの問題になるが、私は「現状打破」は楽しいなぁと感じる。
大人に、そして社会人になるとルーティンワークが増えて、一年という時の経つのが非常に早く感じるものだ。
その点、巌流島は良くも悪くも先が見えない(笑)。毎大会こなしながらも、次の展望は誰にも読めない。戦略がないというのではない。毎回、運営側も選手も初めての試みに挑むので、先が読めず、ルーティンワークになりえないのだ。
いつだって「ああ、こうなったんだ」「へぇ、こうなるのかぁ」の連続。それは観る側のファンも一緒だろう。いや、巌流島の場合は、“観る側”よりも一緒に“体験する側”といったほうがしっくりくるか。
先が見えないのは不安であり、ストレスにもなるが、一方で毎度新たなものに、未知なるものに飛び込んでいくのは、“生きている”ことを実感する喜びを与えてくれる。
与えられた答などないなか、試行錯誤しながら進んでいるので、必然、時間が濃密になる。ボーッとなどしていられないのだから。
思えば、菊野克紀選手が2016年夏に巌流島に参戦してから、まだ一年ほどしか経っていない。小見川道大選手に至っては、去年の今頃はまだ巌流島に登場してさえいない。しかし、私には何かもうずいぶん長いこと共闘してる戦友たちという感覚があるのだ。すでに数年は一緒に頑張ってきたような感覚がある。
この話を菊野選手にしたら「まったく同感」と話していた。菊野選手は巌流島参戦以来、常に「一寸先は闇」的なテーマを自らに課してきた。苦しくも濃密な時間を過ごしてきただろう。
といっても菊野さんの場合は、自らもっともっとと「苦行」を欲しがる相当の変態なので(笑)、それはもう“苦しみ”とは呼べないものなのかもしれないが。
いずれにせよ、大人になってからも、幼少時のように長く感じる濃い年月を送れるのだ。一度しかない人生、こんな幸せなことはない。
これは選手ひとりのケースではなく、運営もファンも同じ感覚を現在進行形で共有しているはずだ。誰にも答がない道なき道を皆で拓き進んでいる。
巌流島では選手だけが主役ではない。ある意味では巌流島には主役はいない。各ファン、各選手、各運営者のそれぞれが主役なのだ。それぞれの視点での主役がある。
みんなで作っていく「新格闘技ツクール」。それが巌流島。
この冒険ファンタジー。いざクリアしてしまったら、達成感とともに寂しさも覚えるだろう。だが、そもそも巌流島にクリアというものがあるのかも分からない。あるいは絶対にクリアなどできない「無理ゲー」なのかもしれない。
とりあえず、ここまでプレイしてみて「糞ゲー」ということはないだろう(笑)。
先は誰にも分からないが、今このときに最適な解を導き出しながら、みんなでプログラミングしていけばいい。
そういえば「巌流島は意識高い系を気取ってる」という意見もちょくちょく目にする。
それに関しては、むしろもっと意識を高く持って勝負していきましょうという話。我々にはまだまだ、やるべきことがたくさんある。意識を低く持って、いったいどうやって闘っていくというのだ。
我々は日本人の日本人の手による格闘技ムーブメントを創らなければならない。
選手、ファン、運営。それぞれに意識を高く持って、この挑戦と冒険を続けていきたい。
9・2巌流島のレポートはコチラ⇒
『ADAUCHI 2017 in MAIHAMA』