沖縄拳法空手の山城美智師範が初めて観客席で見た巌流島の「呪い」
お題………賛否両論! 全日本武術選手権。刃牙の世界は実現できるか?
今回の巌流島、私的には大成功だった!
しかし、一回戦を終えた段階で私は「優勝する気だ」と思ったのは奥田選手のみ。
この「優勝する気」ってのは他に出場した選手、みんなあったかもしれない。
しかし、私の言う「優勝する気」というのは、その上で最適解を導き出した、奥田選手の気迫のことを言っているのだ。
記者会見での牽制と暴言。それとは真逆に、相手をタックルで押し切って、押し出しで一本を狙う。それだけに特化した作戦とフェイントなど。
まさに「優勝することだけ考えている」という闘い方だった。
今回の大会を終えて、道着の袖の長さや着用の規定変更などの議論や、押し出しで勝負が決まることについて意見が多々出ているようだ。
しかし、これは実は巌流島が既に通ってきた道。
最初は勝つための殴り合いから、ルールを熟知しようと研究が進み、その結果、押し出しで勝つことの利点を多くの選手が見つけた。
しかし、それなりに対処できるよう選手たちが研究を進めた。
その後、押し出しだけの勝ちでは面白くない。
殴り合い、流派の色が見たいとなってきた。
簡単に言えば、空手の選手が打撃で人を倒せないなら、それは空手としてどうなのか?という疑問を呈されてしまったからだ。
そこで各選手が押し出しをあわよくば使えればいい、または最後の切り札程度にし、自らの技術で相手を倒すという方向に進んでいった。
また、押し出しで負けてしまうと恥ずかしいということから、選手たちは押し出し対策を徹底して行った。
そして、対策をした上でそれぞれの個性で闘いが作られていった。
しかし、ここには裏に大きな「呪い」の存在があることに誰も気づいていない。
その呪いとは「名前」である。
それはその格闘技の名前。
簡単に言えば「キックボクシング 」「レスリング」「相撲」「空手」などである。
空手らしく、レスリングらしく、相撲らしく、キックボクシングらしく勝たなければならない。
という呪いである。
選手たちは自分らの「個性、色」を出すべく闘ったが、その名前に沿った勝ち方をしなければならないという、「呪い」をかけられていたことに気づいていなかった。
道着をつけるかどうかという問題は、正直些細な問題だ。
なぜなら、道着をつけていない人が優勝したから。
また、他のトーナメントでは道着をつけている人も優勝したことがあるから。
道着をつけないほうが有利なのか。それとも道着をつけている方が有利なのかという議論は、はっきり言って少しずれた議論なのだ。
重要なことは、「このルールで勝つためには何が最適解なのか」を問うことだった。
そしてもう一つ重要なことは、「呪いに向かえる力があるか」であった。
今回優勝した奥田選手はプロレスラーとして登場した。グレコローマンスタイルのレスリングでも、若い頃に結果を出していると聞く。
打撃系でも、ラウェイなどに出て、いい試合をしていたとも聞いた。
ならば、なぜ打撃で勝負しなかったのか。
簡単な話である。勝つための最適解を見つけたから。
優勝することにこそ勝ちがあり、負けてしまえばすべて言い訳になる。
それが勝負であることを知っているから。
しかし、押し出しだけで勝ってもブーイングを受ける。
でもそれも承知の上。勝てばなんとでも言える。負ければ何も言えない。
そういうリスクを知っているのだ。
だから、すべてのリスクを背負いながら、呪いに立ち向かった。
そしてこの作戦に出たのだと思う。
では、他の選手はどうだったのか?というと、やはり「呪い」にやられてしまった。
「自分はある格闘技の選手で、それで勝つことに意義がある」
という闘い方になったのだ。
勝つだけなら、殴り合いなどしなくても良い。それは今回、奥田選手が証明した。
しかし、自らの技量を見せてぶつけることをした選手たちも多くいた。私はそれは素晴らしいと思う。
しかし、結果的にその猛者たちは押し出し対策不足のためにやられてしまった。
つまり、優勝しようとすることと、勝利しようとすることは違うことなのだ。
今回の多くの選手は、はっきり言って対策不足で負けたに過ぎないのだと思う。
じゃあ、こんな勝ち方、優勝の仕方はだめだとして、ルールの変更をしようとするとする。
これは誰のためのルール変更なのだろうか?
なぜこのルールが作られたのか、考えたことがあるのだろうか?
そして、押し出しで勝ったからと批判されるのは、彼がプロレスラーだからであって、もし相撲取りが押し出しで優勝したら、ルールの変更を必要とするだろうか?
自分がやりづらかったからと言って、ルールの変更を要求すること自体、私は「何も研究していない」としか思えない。
これこそが、「呪い」の結果なのだ。
実際、私達、沖縄拳法では徹底して研究し、どのようにしたら勝利につながるかだけではなく、どのような闘い方であれば、どのような勝ち方であれば、
「沖縄拳法は強い」
という評価を得られるか、徹底的に研究した。
「勝てば良い」ではないのだ。「いかに勝つか」を必死に模索した。
だからこその菊野選手の数多くのKO劇があったのだ。
そしてその前提には、押し出しや土俵際の攻防、相手の性質を徹底的に研究してきたという前提がある。
押し出しで負けるなんてこと、投げ飛ばされて場外に出て負けるなんてことは許されないのだ。
押し出しでの勝利に対し、「これが実戦なのか」というようなことを言う人もいるみたいだが、私達は小見川選手という、柔道の選手の恐ろしいまでの切れ味の巴投げを見て、対戦している。
誰が見ても、あれでは「場外に落とされて殺された」というような印象を受ける。
それが勝ちにもつながっていた。
だから、押し出しや投げで場外になることが、実戦性を問われるようなことなんてない闘いの時代があったのだということを、皆忘れてはいけない。
個性を活かすためにルールが有るのではない。
ルールを理解するからこそ、個性が生きるのだ。
今回は初出場の選手がほとんどだった。
だからこそ、原点回帰のようにしてルールが問われ、闘いが問われ、良し悪しが議論されていく。
私はそれが一番いいことだと思う。
そして、誰もが正解を見つけることは簡単にはできない。
それぞれの視点での利益不利益を語るだけである。
重要なことは、歴史を知り議論することだ。
その先に、巌流島の一段上のステージが待っていると思う。
今回の大成功は、議論がまた起こったこと、外部の人に優勝をかっさらわれたこと。そして多くの猛者が押し出しで負けてしまったということ。
これに尽きると思う。
で、個人的にとっても見れて嬉しかったのが、クンタップ選手が「覚醒した瞬間」を見れたこと。
KENGO選手が引き出したのでしょう。
あの瞬間からのクンタップ選手は、別人のような打撃の切れと動き。
あの状態のクンタップ選手には、菊野も簡単には勝てなかっただろうし、種市もあんなに踏ん張れなかっただろうと思う。
本当にいいものが間近で見れてよかった。
そして、KENGO選手の負けたあと、立ち上がったときの笑顔。
素晴らしく爽やかで、闘えた喜びを感じていたのがとても伝わった。
今回の内容とは真逆になると思うけど、私達は勝ちにこだわることも大事だけど、そういう闘いの美しさを大事にしてもいいと思う。
そんな大会もあっていいんじゃないかなと思う。
私個人はこの試合がベストバウトでした。
こんな面白い大会はなかった。とはいえ、今までずっとセコンドだったので初観戦でした(笑)。
そこに、新たな巌流島の「実戦性」を問われるのではないかと、大きく期待している。
9.17巌流島のレポートはコチラ⇒『全日本武術選手権 in MAIHAMA』