明治生まれの武道家が巌流島を見たら…… 「この大会には立派な青年がいますね」と言うだろう
お題………大反響! 1・3巌流島を総括する
「そうか… それは感心だ」「坊やは良い子に育つぞ」
老人が少年の頭を撫でている。老人は品の良さそうな帽子を被り、ステッキを片手に持っていた。口元のよく整えてあるひげが目をひいた。とても長い坂道の途中で見かけた光景だった。
その坂道はかつて大名行列で馬が音をあげて休んでしまうので、殿様以外は全員馬から下りて歩いたと伝えられる程の長く続く坂道。その名残で坂ノ下辺りは、今でも下馬(げば)と呼ばれている。遥かな昔には坂の下でみな馬から下りた。侍たちが馬を下りて大名行列で歩いていた道に少年はいた。
頭を撫でられた少年はくすぐったそうにしながらも、誇らしげな感じで母親を見つめていた。母親も嬉しそうに少年と一緒に老人を見て、微笑みながら会釈をした。海が近いのだろうか? 漂ってくる潮風の匂いが心地良い。
老人と少年は、その日始めて会った。母親と手を繋いでいた少年の年齢は、3歳と少しくらいだろうか? 二人とも老人と面識はない。面識のない者同士でも警戒心を持たずに、会話が自然に始まった時代がかつての日本にあった。
母親に手を引かれ一緒に歩く少年はどうやら柔道を始めたばかりらしい。それを聞いた老人は「坊や感心だね」と言ったのだ。古い時代の日本では、そうやって袖振り合うも多少の縁と会話が始まったりした。50年くらい前の日本の地方都市では、まだごく当たり前の日常にある風景だった。
いつものように1.3巌流島に関してブログの依頼がやってきた。いつもと違うのは、巌流島を終えてすぐに体調を崩してしまったこと。人生初のインフルエンザ、人生初の41.7℃という高熱。布団の中で何を書こうかなと思うも、何も浮かばない。頭がふらふらして関節もギシギシと音を立てるように痛む。総合格闘技の試合でパウンドを喰らってふらふらになって、そのまま関節技で音を立てるくらいにやられるとこうなるのか? そんな事を思う余裕さえないままチョークを喰らったかのように深い眠りに落ちた…。
そうしたら夢を見た。これが本当の記憶なのか、高熱で出てきただけの、ただの夢なのかは全く定かではない。ただ幼い頃に住んでいた町の匂いがした。匂いつきの夢というのは珍しい。幼い頃に暮らした町は海の近くあった。日によっては磯の匂いがした。長い坂道の向こうには海が広がっていた。その匂いが確かに夢の中でした。人はすべての出来事を脳に記憶しているともいわれる。すべてを引き出すと混乱するので忘れるという作業で整理するらしい。だから何かの拍子で忘れていた記憶がパッと鮮明に蘇ることもあるという。
50年くらい前の日本の地方都市は、21世紀から見たら異国としか思えない。家の鍵は閉めない。それで何か問題が起きることなどないのだ。身近に知らない大人は基本いない。だから誰の家でも自分の家のようにして過ごす。子供は地域のみんなが責任を持って育てる。無関心は存在しない。近所のオバちゃんも子供も家族と変わりない関係で暮らす。家族は長く過ごすからより関係や絆が大きく深くなる。近所と同様に家族の絆も現代とは違った関係だった。
海が近い小さな集落に僕は住んでいた。水道はあるが井戸がまだあった。井戸はタダだからみんなそこに集まる。リアル井戸端会議は毎日行なわれる。集落には畑があった。といっても農業を糧にしている家はない。空いてる土地を分け合って、そこに作物を植える。
日常で食べる野菜は、そこで自給自足出来る暮らし。畑の空いてる場所には樹が植えられている。樹の多くは果物の樹。季節ごとに果物の恵を集落みんなで分け合う。収穫の前には、綺麗な花も集落を彩ってくれる。明治初期に日本を訪れた諸外国の人々は、日本のごくありふれたこういった景色に驚嘆した。「この国には天国が存在する」。そのように母国に感想を送った記録が残っている。
集落に店はない。だから定期的に移動販売がやってくる。漁村が近いから、売りに来た小さなカニやシャコガイとかを誰かが買って茹でてくれる。茹で上がったら近所のみんなが集って一緒に食べる。それがおやつだったりする。バケツにいっぱい茹で上がった海の幸を、みんなでワイワイガヤガヤと食べるおやつは格別な味がした。
夏には井戸で冷やしたきゅうりやトマト、そして季節の恵をみんなで集って一緒に食べる。いまからは想像も出来ない深い人間関係と愛情の中で、人々は集い共同生活を営んだ。今よりも物は全く足りない暮らし。ところが今足りない物はすべてそこにあった気がする。人が集まるということは、本来そういうことなのだろう。人が集まり助け合えば大概のことは満たされる。個人がいくら豊かになっても、人との繋がりが薄ければ、結局本当に豊かで満たされることはないのかもしれない。
その頃、大人は子供に「感心だね」って褒めてくれた気がする。そして武道をやる子は、大人から見るともう一段上級な感心な子供だった気がする。50年前の老人は、明治時代に青年だった人になる。武道が本来の目的そのままに行われた時代。武道は青少年にとっては、立派な大人になる為の物だったのかもしれない。だからそれを始めた少年に感心だねと言ったのだ。
巌流島をあの時の老人が見たらなんて言うんだろう? メインの菊野選手と小見川選手の試合を見たら、「立派だな。感心な2人だ」って言いそうな気がする。インフルエンザで41.7℃の発熱なので、正に夢と現実がごちゃ混ぜになっている。頭がボーっとしてきた。小見川選手の巴投げを喰らって、そのまま菊野選手にパウンドを喰らったらこんな感じなのかな(笑)。
巌流島は、武道エンターテイメント。明治の武道をやっている人が、時空を越えて観戦したとしても、惹き付けられるような立ち居振る舞いと言動、そして礼節を持った選手が集り、正々堂々と技を競い合う。これが巌流島の目指すべき境地なのかもしれない。
あまり感心出来ないような試合内容や、言動が目立つ格闘技の興行もあったりする中で、巌流島は独自の雰囲気が出来上がりつつある。奇しくも今大会終了後、菊野選手は「子供が見に来てくれる格闘技」にしたいという発言をしていた。
子供や老人も安心して見れる夢のある舞台には、「武道」というキーワードが確かにしっくりとくる。今大会の菊野選手の上達ぶりは素晴らしかった。開始直後の小見川選手のパンチをすっと見切るようにかわした動きは素晴らしい。避けたのではなく正にすっとかわした動き。あの動きを格下選手ではなく、メインを張る2人のエースの再戦のファーストコンタクトで、当たり前のように行なった。
あの瞬間、僕は菊野選手の勝ちを予想した。試合を実質的に決めたスタンドのパンチで小見川選手が倒れたあとも見事だった、無理に追撃せずに、マウントではなくニーオンザベリーに小見川選手を捕らえ、残心のまま、余計なダメージを与えることなく的確に打った2発のパンチで試合は終了した。
菊野選手は果てしなく上達してきている。さらに現状に満足せずに、あえてテコンドーに出場し、オリンピックまで目指すという。様々な格闘技の可能性を自らの体を張って実行し、巌流島トライアウトや練習会までやる。凄い人物にいつのまにか化けた菊野選手。
負けた小見川選手も素晴らしかった。試合前のあおり映像で、「この試合に未来がかかっている。格闘技の巌流島の自分のそして菊野選手の」と言った小見川選手。あの言葉にゾクッと何かを感じた。
あの老人ならきっとこう言うだろう。
「この大会には素晴らしい青年がいますね。どちらも素晴らしい。お二人が使うのは空手と柔道ですか。そうですか。やはりね」
などと言いそうな気がする。
明治の空手家や柔道家は、強さだけではなく、品格や人格もきっと求められ、自ら磨き日々を過ごしたような気がする。強くて素晴らしい人格を持つ武道家には世代や国籍を越えた魅力がある。だからあの時代に日本の武道は諸外国から受け入れられたのだろう。
グレイシー柔術もあの時代に日本から輸出された。世界中に武道が広まった現代。明治期の精神と品格を持った現代の武道家が集まる大会が行なわれたら、きっと驚愕と本当の敬意を持って世界中から受け入れられるだろう。