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我々は本物のカンフーを見ている 瀬戸選手の闘いから見えてくる型の実戦性とは?

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文◎山田英司(『BUDO-RA BOOKS』編集長)

文◎山田英司(『BUDO-RA BOOKS』編集長)

 

菊野選手の試合の考察に続いて、瀬戸選手の試合についても考察してくれ」と谷川君から頼まれたが、こちらは専門的になり、武術や格闘技を学んでない人には、さっぱり理解出来ないと思うが、内容が高度になるので仕方がない。武術の本質に関わる大切な内容なので、あまりいい加減に書く訳にもいかない。

まず、瀬戸選手の闘い方が、「あまり中国武術的ではない」とか、「地味だ」という批判をよく耳にする。おそらく、蟷螂拳の型にあるカマキリの格好が闘いの中で出てくることを一般の人は期待してるのだと思う。それはジャッキー・チェンのように、相手が同じ中国武術の技で攻めてきて、かつ攻め手が事前に分かっていなければ無理だ。ちょうど合気道の技が攻め手が約束通りでないと決まらないのと同じようなものだ。

しかし、武術とは、相手が思わぬ攻めをしてきても対応できなくてはいかないことは、もちろんだ。そのために型がある。中国武術だろうが空手だろうが目的は同じだ。
最近は沖縄空手の型の理に注目が集まり、空手修行者の間にも型の意味が大分理解されてくるようになった。

FullSizeRender蟷螂手で構える瀬戸選手。手首を柔らかくして打撃を出す蟷螂拳の教えを守る。

型とは戦闘法を伝えるよりも、身体操作の習得を主目的とする。一度自転車に乗れるようになると、不可逆的にずっと乗れる。同じように武術の身体操作も一度習得すると、不可逆的に技を忘れることはない。この時点で戦闘法を考えるべきであり、身体操作の習得以前に戦闘法を考えると、武術の深い世界に足を踏み入れることは不可能になる。

この辺が難しい所で、私なども早く強くなりたくて、格闘技的な動きを取り入れたりして、よく足踏みをした。しかし、正しい先生について、正確に習得しないと武術的ステップアップは困難であり、大体の人はそれ以前に脱落していくことがほとんどだ。

そうならないためには、型の教えを取り違えないことが大切だ。しかし、多くの人は型の動きが戦闘法を伝えていると誤解している。例えば上段受けから中段突きが型に出てきたとしよう。相手が単発で上段を突いてきたら、型通り反撃できるかもしれないが、実際には連打かもしれないし、中段かもしれない。また、実際の格闘シーンでは蹴りもあり、タックルもあり、掴みもあり、武器もある。要するに型通り動こうとする限り、型は実戦に使えない、という矛盾に陥り、型を軽視するようになる。

余談だが、こうした型の矛盾を真っ向から批判したのが大山総裁だった。当時は全空連と対立していたという政治的背景はあったが、大山総裁が型はダンス、と批判したことが、空手界に型への誤解を招いた一因になっているかもしれない。この意見は、一面では正しいのだが、型の本質を捉えた意見ではないだろう。しかし、大山総裁が凄いのは、別の本で、「バレリーナとは喧嘩するな。ダンスをやっている人間は身体能力が高いので、空手家を凌駕する動きを見せることがある」と語っていることだ。私などは、だったらダンス的な型はやった方がいいじゃないか、と思ったものだが、理論的にはともかく、結果的に大山総裁の直感は、的を得ていたかも知れない点が面白い。

わかりやすく言おう。型通り動いてはいけない、というのが、型の本当の教えなのだ。こう言うと皆いぶかしがるのだが、実はその勘違いと、瀬戸選手がカマキリの動きをしていない、と批判するのは、同じ誤解から生じている。

私は生徒に指導するとき、よく自動車教習所の例を出す。教習所には、カーブやクランク、車庫スペースなどがあるが、これは教習所のコースを通じて、一般道に対応する為のものだ。型通り動こうとする人は、教習所のコースのカーブ以外は曲がれない、と言っているようなものだ。それは教習所の教えではない。型も同じだ。型以外の動きでも、型の教えを守れ、というのが正しい理解である。教習所のコースには誰も疑問を挟まないのに、型になるといきなり思考が止まる。型は、実戦の教習所である。

教習所で運転技術を学ぶように、型は自己の身体の運転技術、すなわち武術的な身体操作を学ぶものだ。武術に必要な身体操作は多様であり、例えば蟷螂拳の伝える身体操作と太極拳の伝える身体操作は、共通点もあれば、差異もある。しかし、習得した身体操作を、環境により適応させることで、自ずと戦闘法が明らかになる、という点では、どの武術も共通している。

FullSizeRender-1試合場の端に相手を追い詰めたら、投げるのではなく、相手を遠ざけるようにして押し出すことによって同体を防ぐ。これも中国武術の基本戦術である。

巌流島はもちろん実戦の場ではないが、ルールのある闘いの環境の中で、武術を生かそうと思ったら、自己の学んだ身体操作を活かした戦闘法を、まずは求めねばならない。瀬戸選手はある意味、最も忠実にその教えに添った動きと戦闘法を選択していた。そこにカマキリの格好やテナガザルの動きが入っているかどうかなどは感知することではない。

武術で培った重い腰で、クラブマガ王者の投げをこらえ、自分は試合場の端から、投げではなく、双按という両手押しで相手を押し出す。環境の武器化を考えたとき、実は投げより、双按の方が有利である、というのが中国武術の教えだからである。瀬戸選手一人が、巌流島ルールの環境の武器化に対応した動きを見せていた。

あらゆる局面に対応できる実戦力を中国では功夫(コンフー)と呼ぶ。カンフーの語源である。実戦は、一対一や、素手の闘いばかりではなく、また、闘いの環境も足場か良いとは限らず、明るい場所とも限らない。日常のあらゆる場所で闘うことを想定するから護身術となる。

瀬戸選手は、実はフルコンタクト空手ルール、素手での顔面パンチ有りルール、そして今回の巌流島ルール。全く異なるルールの中でも常に対応し、全てに勝利している。これは凄いことだ。自己の武術的身体能力を高めるだけでなく、環境に適応させる能力も兼ね備えていることの証しである。

それを功夫の持ち主という。
我々はまさに武術の達人の動きを目にしているのだが、多くの人は、まだそのことに気づいていないようだ。