オリンピックと、なぜか大相撲
9月2日(金)のブロマガ………お題「日本人とオリンピック」
オリンピックは面白かった。そして大相撲も面白い。意味不明の書き出しとタイトルから始まるこのブログ、出来れば最後までお読みください。
オリンピックの開催地は、ブラジルのリオデジャネイロ。リオデジャネイロは、1月のリオという意味。ジャネイロは英語のJanuaryになる。開会式のあったマラカナンスタジアムは、エリオ・グレイシー対木村政彦の1戦が行われた場所。すぐ隣のマラカナンジーニョで僕は試合をしたことがある。ブラジルはグレイシー柔術を通じて親近感がある。オリンピックで出てくる地名にも親近感が湧く。べレンはコンデコマとなった前田光世先生の終焉の地。マナウスは柔術の強豪選手を多く輩出している。知ってる地名や行ったことがある懐かしい場所がテレビに映ると自然に見たくなる。普段はスポーツを見ない僕もついついチャンネルを合わせる事になった。
しかも今回は日本勢の大活躍があったから、ついついチャンネルを合わせる回数が増えて、睡眠不足になるまでオリンピックを楽しんだ。日本人が勝つと単純に面白いのだ。知っている選手が勝つ。これも多くの観客を集めるのに欠かせない要素なんだろう。
見てみるとスポーツはどれも面白い。そこまでいかに持っていくのか? オリンピックはついつい見てしまう素晴らしいコンテンツだった。見てしまうと引き込まれる。考えてみれば当たり前なのだ。世界一を競う場にいるのは各国のトップ選手だけ。鍛え抜かれた肉体とパフォーマンスは、見るものを圧倒的に感動させてくれる。しかもオリンピックは展開が早い。あっという間に決勝まで進み、色んな競技が15日間目白押し。飽きる暇がないのだ。飽きる暇がないというのも格闘技の興行に必要なんだろうと感じたりした。
色々と観戦した中で僕が一番凄いなと感じたのは、実はカヌーだった。格闘技ではない。カヌーの存在は知っていても、ただの昔の船でしかない。競技カヌーの存在なんて今回初めて知った。だから感動したんだろう。見たこともない凄い存在は圧倒的に惹きつけるのだ。初めて見る物は刺激が大きい。格闘技は見過ぎているから少々の名勝負では感動しないのだ。そして、これこそが現在の格闘技界が抱える閉塞の問題と同じなのかもしれない。
ブログで谷川さんが今後はトーナメントをやると書いていた。実は僕は新しいトーナメントの構想がある。主催者ではないので無責任にここで提言したりする。無責任が新しいムーブメントを引き起こすのだ(笑)。
巌流島は日本発の武道エンターテイメントを謳っている。日本伝統の大相撲に僕は新しいトーナメントのヒントを感じたりする。ここで謎のタイトルの意味がようやく出てきた。
相撲取り最強説とかあったりする。実際に総合格闘技に出ると案外期待を裏切ったりする。相撲取りは絶対に強い。相撲を取れば絶対に強い。あの体はもはや武器なのだ。ところが実際の相撲のルールは危険な技を排除している。肘も頭突きも使うブチかましは格闘家には脅威でしかない。ところがあれが出るのは、一番最初のコンタクトの時だけになる。投げを放ちながら頭突きや肘打ちは相撲道から外れる所作になる。
ただ逃げないで鍛えぬいた体でぶつかり合い、競い合う。実は相撲には危険な技はそれほどない。もちろん始めに逃げないでぶつかり合って競い合える肉体は脅威でしかない。それを15日間連続で行える仕組みが大相撲のルール。それが相撲道なのだろう。相撲はある意味最強であり、あらゆる局面で闘うには心細い不思議な存在。鍛え抜かれた力士が弱いと思う人はまずいない。実際に絶対に強い。ところが15日間闘える格闘技はあまりない。総合格闘技で、15日間連続で試合をしたら命に関わってしまう。
実は危険なルールだから強く見える訳ではないし、観客を集める訳ではないのだ。そんなことに気が付いた。格闘技マニア以外の一般の人なら、なおさらそんなことは関係ない。ただ見て凄いか? 面白いか? そこが惹きつける要素なのだ。大相撲はみんな面白いと思うから人気があり、みんな力士は絶対に強いと思う。ルールはそれほど危険でなくとも構わないのかもしれない。
大相撲にお互い精根尽き果てるまで殴りあったり、マウントパンチや長時間の寝技を加えても別に人気は増さないだろう。潔く鍛えぬいた体で勝負をする、勝負は一瞬で決まる。だから面白いのだ。フリーノックダウンでも3ノックダウンでも1ノックダウンでも、たぶん勝負が綺麗に決まった方がわかりやすいから観客に届くような気がする。観客は綺麗な決着が見たいのだ。綺麗な決着が必ずあり、15日間かけてドラマを作る大相撲はだからこそ、とても面白い。
こんなトーナメントはどうだろう。1試合を1ラウンドにする。8人トーナメントなら一人5ラウンド。つまり5試合を行う。総当りだと7ラウンドになるところをあえて5ラウンドにする。全員と試合をしないからドラマが生まれる気がする。1試合は3分から5分くらい。判定も有り。KO勝ちは高得点が与えられる。全試合終了時点でもっとも高い得点の選手が優勝するシステム。決着が付きやすい方が良いから、決まり手は転落1回。スタンディングダウンとフラッシュダウンに相当したダウンも1回でKOにする。判定もつける。立ち技からの連続の寝技の攻防は20秒くらいで終了。そのくらいが飽きない攻防の時間だと思う。
そこに柔道の一本に相当する投げを決めたら、一本勝ちも加えると良いように思う。あっさり勝っても全部で5試合やるのだ。全部判定でも5ラウンドまで。インターバルは長い。他の試合がインターバルになる。このトーナメントは通常の物よりも、安全でとてもきつい。オリンピックスポーツも安全でとてもきつい。そのために鍛えぬいた体と技を見せるから観客は魅了される。鍛えぬくには安全で回数を繰り返せるルールに沿った試合の方が選手は磨き抜かれる。
オリンピック競技も大相撲も安全できついことを繰り返し、鍛えぬかれた攻防を見せる。5試合を5人と。1試合目と2試合目ではダメージがお互いに変わってくる。3試合目になればさらに大きくなる。前の試合から続くドラマが連続で見れる。5試合目になれば棄権する選手も出るかもしれない。ダメージが大きい選手と上手く勝ち続けた選手の試合はドラマチックだったりする。
見たこともない新しいトーナメント。ダメージがあまり溜まらないような決着のつけ方。連続したドラマのようなトーナメント。オリンピックは誰もが凄いと感じる。格闘技のような危険な攻防はオリンピックにはない。総合格闘技の前座の方が危険な状態で試合をするが、総合格闘技の前座の選手の方が凄いと思う人はほとんどいない。お金を払って前座の試合を見に行く人は極少数のマニアだ。
武道とはそもそも武術の危険な技を一切排除して清々堂々とお互いに技を競い合うための存在だった。そこに過激な物を求めるのは武道ではない。武道エンターテイメントを掲げるなら、なおさら選手を危険にさらして、それを集客にあてることには絶対的な矛盾が生じる。何処よりも選手を安全に守り、観客を満足させる興行。武道とは本来お互いが自分を、そして相手を無言で守り、正々堂々と勝負を行うという定義を持っている。
正々堂々の勝負とは許された技で、全力で相手を倒しにゆく。だから鍛えぬいた肉体と技、そして精神を持つもののみが勝負を許されてきたのだ。格闘技ではないオリンピックの総ての競技も実は同じなのだ。オリンピックに出場できるのは、本来鍛えぬいた体と技と精神を持った者のみだったはず。卑怯な試合や鍛え抜いていない選手は巌流島には必要ない。そんな興行になっていけば素晴らしい。
谷川さん、新しいトーナメントいかがですか? UFCが過激なら巌流島は正々堂々。武道精神を持って試合相手と観客に向き合う。まったく無責任な発言ですが(笑)、何かを越えるには真逆をやった方が真似をする何倍も効率が高いような気がします。