『INOKI BOM-BA-YE』復活構想! それは谷川貞治の思いつきからはじまった
「元気ですかーッ! 元気があればなんでもできる。元気があれば『INOKI BOM-BA-YE(×巌流島in両国』もできる」
去る11月25日、都内ホテルでの記者会見の席上、令和猪木軍の小川直也総監督はそう言い放った。
自分の涙腺が思わず緩んだ瞬間だった。
「小川さん、馬鹿になっているなー」と嬉しくなったのにくわえ、「やっぱりアントニオ猪木の直系の弟子がこの言葉を公に発するのって、一般の方が口にするのとでは意味が違うもんなー」と思った。
あ、申し遅れましたが、自分は“Show”大谷泰顕と言います。現在は『INOKI BOM-BA-YE』の成功に向け、全力を注ぐ毎日で、その一貫でアントニオ猪木のYouTubeチャンネル「最後の闘魂」の企画・協力をさせてもらっております。
しかしこの半年の間、本当にいろんなことがありすぎて、何からどう書いていいのやらわからないのが本音。もちろん、そのなかで最大の事件は、まさかまさか猪木さんがお亡くなりになってしまったことだった。
結果的に亡くなる10日前、自分とTBSの坂田栄治さんが「最後の闘魂」の取材で、猪木さんのご自宅で話を聞かせてもらったのだけど、その段階ではそれが生前最後の映像として世に出るなんて考えてもいなかった。
思い返せば、自分が『INOKI BOM-BA-YE』の名前を聞いたのは、5カ月以上前。あれは『THE MATCH』(6月19日、東京ドーム)を目前に控えた頃だったと記憶している。声の主は今回の主催者でもある谷川貞治さんだった。
「Show、INOKI BOM-BA-YEやらない?」
谷川さんは、電話口でそう言ったと思う。今振り返ると、どんな会話のなかでそう言ったのか。まったく覚えてはいないけど、たしかに谷川さんは自分にそう言った。
もちろん、その段階では猪木さんがあちらの世界に旅立ってしまうなんて想像もしていない。むしろ、人前に出続けきた猪木さんが、大観衆の前で自ら「元気ですかーッ!」と叫び、観客と一緒に「1、2、3、ダーッ!」と号令をかければ、すぐに元気を取りもどすに違いない! 自分はそう信じてやまなかった。
ただ、まだその段階では、猪木さんが自身の権利を巡って係争中だったことは知っていたし、それがもう落ち着く段階まで来ていたことも伝わってきていた。権利元が変われば、イチから話をしていかざるを得なくなる。だから、そこを待ってから正式に話をしてみよう。
谷川さんとはそれから、ことあるごとにそんな話をしていたし、その段階で「令和猪木軍」構想も谷川さんから伝えられ、そこに向けたマッチメイク案(当時と発表したカードはかなり変わったが)も教えてもらってはいたものの、そもそも本当に『INOKI BOM-BA-YE』を開催できるのか。そんなことは一切わからないまま、時間だけがすぎていった。
8月に入ると、猪木さんが引越を済ませ、権利の移行が行われたとわかった。この段階で、ようやく猪木元気工場(IGF)の高橋仁志社長と会ってその話をすることになった。
この段階で高橋社長はその手際の良さを発揮させる。それはあくまで自分個人と高橋社長の関係性で、個人的に高橋社長には、谷川さんと実際に会う前の段階で、『INOKI BOM-BA-YE』を復活させたいという提案をしていた。そこで高橋社長は、猪木さんが引越を済ませたその日、もうすでに猪木さんと『INOKI BOM-BA-YE』の話をしていたというのだ。
当然、その段階で猪木さんは「やれんのか! やれやほんなら」(1988年4月22日、沖縄・奥武山公園体育館)とばかりに快諾し、「谷川に任せる」と逆指名したと聞く。おそらく現役を引退してから猪木さんが最も輝いていたと思われる、2000年〜2002年の年末にあった『INOKI BOM-BA-YE』を谷川さんや正道会館の石井和義館長、RIZINの榊原信行CEOらが仕切っていたこともあって、谷川さんならアントニオ猪木を神輿に乗せて上手く踊らせてくれるだろう、との読みがあったのだろう。
ただ、自分がその直後、あろうことかコロナに罹ってしまい、谷川さんと高橋社長をすぐに引き合わせることができなくなってしまったため、最初に三者が顔を合わせたのはオンラインでのビデオ通話だったし、晴れて会うことができたのは、8月半ばだったと記憶している。
そこからは2015年の大晦日以来、7年ぶりとなる『INOKI BOM-BA-YE』実現に向け、まずは会場探しからはじまって、選手や関係者との交渉、会場でのビジョンの設置場所と見切れ席の調整、リングにするか舞台にするか問題、チケットの販売や配信、協賛をどう募るか。メディアへのリリースのしかたとタイミング、公式サイトや各媒体での原稿書き、動画を撮っての編集……と、やってもやっても終わっていかない膨大な仕事量に追われる日々がはじまった。
それでも最も大変なのは自分ではなく、あきらかに谷川さんだ。なにせ一人でリスクを 背負ったのだから。そこは誰に何を言われようと敬意を表する。
そして自分に関して言わせてもらえば、今、自分は幸せのなかにいる。だって『INOKI BOM-BA-YE』に関わっていられるのだ。これは自分だけの特権になる。リスクを背負ったのは谷川さんだから、そこに自分が出てくるのはおこがましいのかもしれないけど、自分は谷川さんと誰よりも最初に手を挙げた。挑戦しようと決めたのだ。
「人は歩みを止め、挑戦をあきらめたときに年老いていくものだと思います」
アントニオ猪木は引退試合(1988年4月4日、東京ドーム)の直後にそう言って挨拶をし、『道』の詩を読み出した。だったらやるしかない。今回が失敗すれば、自分はもう『INOKI BOM-BA-YE』に関わることはできないだろうと思っている。
「安住の地などないものを……」。生前の猪木さんからそんな言葉を聞いたことがある。
だからこそ、常に挑戦していくしかない。他人の目や揚げ足取りの冷めた言動はどうでもいい。ひたすら「猪木とは何か?」を考え続けること。そこにしか格闘技界の未来はない。少なくとも自分はそう肝に銘じながら、今、『INOKI BOM-BA-YE』に向けて一歩一歩、歩み続けている。
【後編に続く】
12.28両国のチケット情報はコチラ⇒ 『INOKI BOM-BA-YE×巌流島』