GANRYUJIMA BLOG巌流島ブログ

「柳生の宿敵は忍び! 巌流島の宿敵とは?」

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
文◎平直行(刃牙流武術・創始者)

文◎平直行(刃牙流武術・創始者)

 

急遽決定した5月11日 巌流島舞浜大会。たった3週間の準備期間。関係者は大変だったでしょう。お疲れ様でした。たった3週間の準備期間で出場した選手の皆さんも本当にお疲れ様でした。

たった3週間で試合をやるのはとてもしんどい。コンスタントに試合をこなしていれば別だが、たった3週間でデビューとか凄いです。出場した選手全員素晴らしい勇気だと思います。そして運営で言えば、やっぱり?も出て来ます。格闘技の危険性を考えれば出来るだけリスクを減らすのが運営側の責任なのだと思います。

当日、第1試合と第7試合の主審を務めた。第1試合は酔拳対ニャンニャン拳法という不思議な対決。第7試合はロッキー川村対チェ・ホンマン。巌流島的なマッチメークの2試合を僕は裁いた。2つの試合を裁きながら、心眼流の師匠から聞かせて頂いた言葉がチラチラと出て来た。その言葉は、「柳生の宿敵は忍び」という言葉。

柳生が一番苦戦した相手は忍び。その理由は「忍びは決して闘わない」から。忍びは闘わずに逃げる。忍びが逃げるのは高い場所。忍びは高所に駆け上がることに秀でており、その為の訓練を幼少期から積んでいる。高所に駆け上ることは訓練を積まなければ武術に秀でていても難しい。

高い場所に逃げた忍びはそのまま帰ることはない。気配を殺し、後をつける。後をつけ居場所を確認したら気配を殺し去ってゆく。後日、悟られるようにやって来て闇に紛れて暗殺を行なう。暗殺は闇に隠れてやるもんさ。心眼流の師匠が聞かせてくれた話。どんなに強くとも、相手が逃げればその力を発揮する事は出来ない。

第1試合と第7試合のような動きをされたのでは、格闘技で通用するような強さの基準は関係なくなってしまう。逃げる相手を無理に追えば自分が不利になってしまう。忍びが高い壁を登ったのを無理に追えば上で待っている忍びに、登る直前に無抵抗で切られてしまう。壁を登るには両手を使わなければ不可能で、上で待っていればただ下に向けて切れば良い。だから無理に追いかけることも出来ない。

追わなければ後日、暗殺の恐怖に怯える日々が始まる。忍びとは暗殺者なのだ。暗殺者にも充分に通用するような手品のような技、これが心眼流の本当の技。刀は単に止めを刺す道具に過ぎず、そこに至るには刀以外の手品を使う。止めを刺す刀を磨き腕も磨く、そして実戦では刀は使わない。これが師匠から聞かせて頂いた口伝になる。

巌流島で魅せたいものは忍びの暗殺ではない。巌流島は武道エンターティメントを謳う全く新しい価値観を切り開く興行。だから武術の手品を見せるのでもない。

第1試合は、途中でニャンニャン拳法の選手の転落した相手の負傷によって酔拳の勝利となった。追ってきた相手を待ち伏せて上から切りつけるような見たことのない、酔拳の技を次回魅せて欲しいと思います。

第7試合のロッキー川村対チェ・ホンマンの1戦もロッキーがフットワークを超えた走るような動きでホンマンを翻弄した。武術で言えば翻弄だが、格闘技で言えば消極的な試合になる。フットワークなら追いきれても、走るように動かれてはなかなか追い詰めることは難しい。下手に追って隙が出来れば今度は自分が上で待ち伏せをしている忍びに切られることになる。

リングサイドとリングの中は近いようで全く別の景色になる。観客席の後ろの方では見え方が別次元のようになる。これは実際に全部を経験してみなければ分からない。選手を裁くというのは、選手とは別の立場で同じ場所に立つ事。だから誰も見えないような景色が見えたりする。ホンマンの攻撃を避けるロッキー。避けるまでは出来ても、次の踏み込みがなかなか出来ない。1発当たったら次を打てば良い。

ところがそう簡単でもない。隣で見る、闘う2人の拳の大きさが倍くらい違うのだ。しかもオープンフィンガーグローブ。オープンフィンガーは拳の前が指のように凸凹している。黒光りした見た事も無いような大きなオープンフィンガーグローブが相手を狙ってうにゃうにゃと目の前で動くのは結構な迫力だ。自分に向いてる訳ではないのだが。でもすごい迫力だったな。試合中にロッキーの気持ちになってありゃ怖いよな、、、とか思ったりする瞬間があったりしました。

サムネ

自分の攻撃が当たる距離では、相手の攻撃も当たりやすくなる。対格差が大きければ1発で大きく効かせることは難しい。1発当たれば相手も返してくる。ホンマンの周りを動いてチャンスを伺うロッキーの動きは凄く緊張感があった。ホンマンも予想外に動き回るロッキーをあえて深追いしない。深追いしてバランスが崩れれば体格差があっても、もらった攻撃は予想外に効いたりする。

巌流島の闘技場はリングやオクタゴンよりも広い。しかもロープや金網がないから追い詰めるのが難しいのだ。ホンマンは韓国相撲の横綱だから組んだら簡単に押し出せる。そう思ったのだが。

ロッキーは小さくて動きがすばしっこい。普通に相撲をしたら相手が小さければ圧倒的に有利になる。広場のような場所で小さくてすばしっこい相手と追いかけっこしたら、今度は大きな方が不利になる。不利になると疲れて動きが鈍くなり、バランスを崩した時に、スタミナもバランスも大きな方は早く消耗する。

まともに組めば圧倒的に強い大きな選手は、相手が走って逃げれば今度は不利な立場に逆転してしまう。ホンマンは本能的にそれが分かって「どんどん来いよ」と挑発して、ロッキーも分かっているから誘いに乗らない。近くで見てると迫力満点の攻防は観客席まで届いたのだろうか?

誰も知らない未知の世界であるのが、21世紀における本当の武道だと思う。そしてそれが昇華した武道エンターティメントはまだ誰も見たことがない。本当の武道エンターティメントが確立すれば世界中が驚きを持って迎え入れる可能性を感じる。

本当の武道を見つけるのに邪魔する宿敵はおそらく既成概念になる。武道と武術は全く違う存在。格闘技と武道も別物。それを分けられないのは既成概念。全く新しい武道エンターティメントを謳う巌流島の未来を握る鍵は、既成概念を取っ払うこと。そこから作り出す誰も見たことのない武道エンターティメントにある。

明治の柔道の話を柔術家から聞いた。

柳生心眼流の師匠のお父さんは明治期の柔術家だった。明治に入り柔術が衰退した頃、ちょうど近所に講道館が出来てそこに通うようになったと聞かせて頂いた。講道館に学んだ古流柔術家の話は視点が他と違い興味深い。

「うちの親父は柔道が凄く楽しかったって言ってたな」

「そして清清しかったとも言ってたぞ」

古流の柔術は人を殺す技術体系で出来ている。技をやり取りするという発想も当然ない。一番強くなる稽古を積んで技と体を鍛えたら、本当に闘う時には一番技が下手で体も弱い心がけで闘う。それでも絶対に勝てるように、技と体を使う工夫が詰まったものが古流柔術。

初期の講道館柔道は組み手争いをさせない。お互いが充分に得意の組み手になった状態から始まる。そして正々堂々と技を掛け合い。腰を引いて逃げたりもしない。ただお互いの持つ技を出し合い、相手の技がかかったと感じたら無理せずに投げられる。相手の技を認めて投げられた相手を投げた方も認め、怪我をさせないように引き手を充分に取って相手の体を守る。何度もやるうちにお互いの技量が高まってゆく。

負けることは死と考えた当時の柔術家には、負けるたびに生まれ変わるという新しい概念は新鮮な驚きだったそうだ。それまでやっていた古流柔術とは180度変った清清しい関係を築いた柔道は、当時の武術家に好感を持って受け入れられた。だから講道館はあれだけ流行って大きくなった。

「本当のことは知らないよ」

「でもうちの親父はそう聞かせてくれたんだ」

「昔を思い出しながら楽しそうに聞かせてくれた」

心眼流の師匠は子供の頃の東京の景色を見ているような感じで話を聞かせてくれた。

あの日は青空で、開けた窓から入ってきた風が気持ち良かった。空も空気もあの時代と繋がったような不思議な気分になった。

巌流島は武道エンターティメントを謳う。本当の武術って? そのヒントは東京オリンピックに向けて世界と闘う柔道や空手よりも、明治期の柔道や空手に隠れている。

講道館柔道や空手が、当時の人々に爆発的に受け入れられたその理由とは? やっている側の清清しさではないのか?    

ドロドロした世界が格闘技のプロの世界には隠れていたりする。ただ勝つ為だけにする余計な努力。そこに違和感を感じる選手や観客はけっこう多い。お互いが格闘技を始めた頃に憧れた理想。そこにドロドロした変な技術はきっと無い。プロで上に駆け上がるにはドロドロした部分を巧みに使う必要も確かにある。

自分が憧れた格闘技を正々堂々試してみたくはないですか? 

そんな選手たちが集って熱戦を繰り返す興行は最高じゃないですか?

試合を見終わって清清しい感動をしてみたくないですか? 

そこに巌流島の未来のヒントが隠されている。

5.11巌流島の大会情報はコチラ⇒ 『世界武術王決定戦 2019 in MAIHAMA