巌流島は「武道エンターテインメント」。殺し合いの武術とも、勝敗だけにこだわる格闘技とも違う
10月29日(土)のブロマガ………お題「10.21 巌流島・全アジア武術選手権大会の感想」
今回の巌流島はとても印象に残る素晴らしい大会だった。序盤の試合は正直しょっぱい試合だった。ところがメインがそれを吹っ飛ばしてくれた。セミもその前の試合も良かった。もちろん決勝で闘った菊野選手と小見川選手のトーナメントの試合はどれも良かったし、トーナメント自体も素晴らしかった。
序盤の試合がしょっぱいとかえって、後の試合がよく感じられたりする興行がある。そういった興行は、印象に残る良い興行だったりする。
今回の巌流島の試合は選手の顔が見えない状態。例えば影絵で見たとしても、どの選手が闘っているのかがすぐに分る。選手の個性が突出した興行が今回の興行。これはプロとして大切な要素になる。
菊野選手と小見川選手の試合は素晴らしかった。まさか場外に巴投げで落すなんて……。小見川選手は巌流島ルールにとても向いている。そして強い。その小見川選手をKOでくだした菊野選手も素晴らしい選手だ。
巌流島には良い選手が集ってきた。トーナメントや決勝の試合がもし地上波で流れたとしたら、翌日の大きな話題になっていた気がする。昔、プロレスを見て翌日に学校や職場でその話で盛り上ったように、色々な場所で話題になっただろう。
「きのう巌流島っていうの見た?」「見たよ」「あの外に投げたの凄かったね」「あれは巴投げっていうんだよ」「へー、そうなんだ」「あのひとに勝った選手の…」「あっ、菊野選手ね」「そうそう、あの最後の蹴りも凄かったね」「あれは三日月蹴りっていうんだよ」などと、職場や学校で話題になった気がする。昭和の格闘技やプロレスが、翌日もう一度おいしい存在だったように。
巌流島は「武道エンターテインメント」を謳う。そのわりにいまいちコンセプトがはっきりしなかった。ところが今回は大会の映像で素晴らしい言葉が流れた。武道とは殺し合いの武術とは違い、単に勝敗にだけこだわる格闘技とも違う。己の稽古の成果を正々堂々とお互いに試し合う。
確かこんな感じのアナウンスが流れた。この言葉は僕が作ったわけじゃない。いつのまにか巌流島が武道を理解し、興行として機能し始めたのだ。武道と武術は全く違うし、格闘技と武道も似ているようで全く異なる。この違いを明確にして、選手もそれを理解して試合を行なえば、巌流島は大化けする可能性が高い。
僕は古流柔術を学び、稽古の合間に武術の技以外にも色々な話を聞かせて頂いている。師匠のお父様は、古流柔術と共に明治の初期の柔道もたしなんだ方。師匠を通じて初期の柔道の話を聞かせて頂いたとき、今回の言葉と繋がった。
「初期の柔道は組み手争いをしなかった。組み手争いをする者は卑怯者と笑われたそうだよ。お互いに充分に組んで、そこから乱捕りや試合を始めたんだ。技の試し合いをするのが乱捕りや試合。それを拒否してどうする。だから卑怯者って笑われたそうだよ。うちの親父がそう言っていたよ」
「柔術は人を殺すための技ばかりだ。柔術は素手じゃない。そんなに甘くない。柔術は武器を使う。明治の前の柔術家は剣術家でもあったんだよ。宮本武蔵も柔術に関して言葉を残している。柔術家は武器を使う。武器は剣道とは違った使い方をする。正々堂々なんて一切ない。いかに相手を騙して殺すのか、それが柔術家と剣術家の嗜みだったんだ。真剣勝負は命をかける。素手の真剣勝負なんてまずない。真剣勝負は真剣でやる物なんだ。負けたら死ぬのに正々堂々やる馬鹿はいない。負けて死ぬのは自分だけじゃないんだ。自分の家族、仲間、国のすべてが死んでしまう可能性さえある。だから何が何でも勝つための工夫が本当の武術さ」
「明治期になって柔道が出来た時に、柔術家は驚いたんだ。柔道によって柔術は衰退した。だから柔術家は柔道を敵視した。それももちろんある。でもうちの親父みたいに柔道を楽しんだ柔術家もいたんだ。それまで卑怯の限りをつくす柔術をやっていた親父は驚いたんだそうだ。負けてもよいから正々堂々と柔道をしなさい。そういった新しい考え方に驚いた。負けてもそれは畳の上だけのこと。受け身をきちんとすれば怪我もしない。負けたから自分の弱いところが分かる。弱いところが分かり、そこを埋めればもっと強くなれる。だから逃げるような卑怯は誰もしない。清清しい気分で柔道をやったそうだよ」
「明治期の柔道はスポーツとは違う。勝ちに執着して何でもやる者は笑われた。上を目指すために、常に自分の持つすべてを正々堂々と試し合ったんだよ。見事に闘い、見事に投げられて負けた選手は褒められたんだ。姑息な手段をとらないで、相手と向き合ったからこそ綺麗に投げられたんだ。腰を引いて逃げる相手を綺麗に投げるのは難しい。正々堂々の結果が負けというだけ。向かっていった姿勢が褒められた。そして綺麗に受身を取ればまた褒められた。だって怪我をしてないんだから。見事に向かい、見事に自分を守ったんだ。正々堂々の結果の負けは褒められることはあっても、笑われることなんかひとつもない。今の武道にはこれが欠けてしまったな」
巌流島は武道エンターテインメントを掲げる。しっかり練習して、その結果を試合で出す。エンターテインメントだから、お客さんに届くような鍛えた体と技を持ち、それをお互いに駆使して、正々堂々と観客の前で闘う。勝利に固執して動かないで判定勝ちを狙うような選手は必要ない。
打撃もあるから、負けても次があるように、安全面にも最大限の努力と工夫をする。自分のやってきたことを観客の前で100%出す。これが武道エンターテインメント。これは全く新しいスタイルになる。
単に勝つだけではない。自分のやってきたことを試合でどこまで出せるのか? 正々堂々、観客の前で試合を出来るのか? そこにも勝負がある。これは言葉にすれば簡単だが、実際には難しい。
人は勝ちにこだわり、さらに負けないことにもこだわってしまう。それでは観客に届く試合にはならない。プロは人の出来ないことをやれるから、お金をもらって人前で闘う資格があるのだ。その部分がなおざりになってしまっているのが現在の格闘技。その難しい部分を選手に求め、格闘技と似て非なる巌流島のスタイルが出来たとしたら。僕はお金を払ってでも見に行きたい。
父兄が顔をしかめる格闘技ではなく、学校の先生が生徒に教えたくなるような、今までなかった格闘技。
「ほら巌流島の選手を見てごらん。努力して、諦めないで、逃げないで闘ってる。相手と闘うだけじゃない。弱い自分と闘ってる。だから前に出られる。自分の弱い心に勝って、自分のやってきたことを出して闘ってる。相手の前に弱い自分とも闘ってる。かっこいいよね。あんなふうな大人になってほしいな」
自分の全てを人前でさらけ出すのは、本当に勇気が必要になる。武道とは本来そういった趣向を持っていた。だからこそ、体育と呼ばれたのだ。