大手テレビ局の副部長を辞めてまで格闘技を選んだ。まさに猪木さんの言葉が背中を押しました
今思い返しても、色々な事が起こって実に楽しい放送席でした。
12月28日の両国国技館。
寒さに震えながら午前10時半に会場入りすると、館内はセレモニーのリハーサル前で薄暗く、アントニオ猪木さんの存在感だけが、所々で感じられる空間。子供の頃から見ていたヒーローが、本当にいなくなってしまったのだという喪失感に包まれました。
まず、「INOKI BOM-BA-YE×巌流島」実況の依頼を正式に受けたのは、RIZIN LANDMARK04終了後の運営本部で、プロデューサーの谷川貞治さんと話していた時でした。アントニオ猪木さんの追悼大会が年末に行われる事は聞いていましたが、実況のお話を頂けるとは。
力道山ファンであった祖父の胡坐の上で、3才の頃から猪木さんのプロレスを見て育ってきた私にとっては、ものすごく光栄なお話。
「是非、宜しくお願い致します!」
もちろん、即答でした。
規格外の体格を誇る大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントさんに果敢に挑んでいく姿や、放送時間終了を迎えても決着がつかないマサ斎藤さんとの流血戦等、
燃える闘魂は、幼少期の私に、心は熱くなるものなのだという事を教えてくれました。
仮面ライダーやウルトラマン、スーパー戦隊等、変身する者だけがヒーローだと思い込んでいた私が、初めて、生身の人間をヒーローだと思ったのが、アントニオ猪木さんでした。
「人は歩みを止めた時に、そして挑戦を諦めた時に、年老いていくのだと思います」
「この道を行けばどうなるものか。 危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。 踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。 迷わず行けよ、行けば分かるさ」
「バカになれ、とことんバカになれ」
副部長にまでなった大企業フジテレビを退社しフリーになる際、猪木さんが残してくれたこの言葉が、後押しになったのは確かです。
闘い、存在、言葉、全てが偉大なるスーパーヒーローの追悼大会。オープニングセレモニーのリハーサルが始まり、「炎のファイター<オーケストラバージョン>」が流れると、自然と気合いが入りました。
そして大会本番、いきなり試合順が変わったのも含め、何が起こるか分からないスリルと試合の興奮、気付けば、思い切り楽しんで実況している自分がいました。
猪木さんがプロレスラーとして、柔道家や空手家、プロボクサー達と戦ってきた事で切り開かれてきた格闘技。
今ではユニファイド・ルールやRIZINルールの違いはあれど、整備され、総合格闘技、MMAとなりました。
先日のRIZIN.40で、Bellatorスコット・コーカー代表が、さいたまスーパーアリーナでの盛り上がりに感動していたハビブ・ヌルマゴメドフ氏に、「MMAはここで始まったんだ」と言ってくれた事が、大会後インタビューで明かされましたが、それを聞いて、猪木さんの異種格闘技戦が、今日MMAに繋がっているのだと感じました。
その【MMA】に、格闘家以外のコンタクトスポーツ選手達も闘えるよう違った形で競技化された【異種格闘技戦】巌流島。さらにUWFルールによる【プロレス】や【世代闘争(猪木&坂口&マサ斎藤&藤原等旧世代軍VS長州&藤波&前田&木村ニューリーダー軍もありましたね)】にもなったキックボクシング(クラウスVS宇佐美)と、Twitterにも呟きましたが、猪木さんの撒いた種が、様々な色の花を咲かせ、華麗な花束になった大会が、今回の『INOKI BOM-BA-YE×巌流島』でした。
いつ何時(なんどき)いかなる形でも、人々が夢中になって格闘技を観て楽しむ姿。それこそが、天国にいる猪木さんが望んでくれている事なのではないでしょうか。
だから、思い切り楽しみました。仕事ではありましたが、時間を忘れるくらい楽しんで実況しました。
エンディングセレモニーでの「炎のファイター」に乗せて、目には見えないアントニオ猪木さんを実況できた事、格闘技を実況する為にフリーになった年、そのタイミングで7年ぶりに復活した「INOKI BOM-BA-YE」を担当できた事は私の誇りです。これからも心の底から楽しんで格闘技を実況します!
色とりどりに観客や闘技場を照らすあのムービングライトの眩しさは、アントニオ猪木さんの笑顔のようでした。
異種格闘技「巌流島」 ー名勝負セレクションー