酔拳野郎の闘いは、なぜ武術の歴史をひっくり返すのか?
カマキリ拳法・瀬戸信介先生の弟子、酔拳野郎・今野淳選手は巌流島デビュー戦を見事TKO勝利。
しかも、酔拳と武術のコンセプトを分かりやすく巌流島の闘技場で見せてくれた。
1ラウンドはひたすら逃走。2ラウンドからは酒を飲んで、ひたすら前に出る酔拳野郎と化し、相手の大ももち選手を転落させる。
打撃格闘技でも総合でもない、武術や護身術の本来の動きだけで勝利してしまった。
この動きの何が武術的なのか?
当然、格闘技を見慣れている人からは、ブーイングに近い評価を受けることは作戦段階から想定内。
むしろ「見事な武術だ」と評価できる人はほとんどいないだろう、というのが私と瀬戸先生の見方。
試合前はもちろんそんな作戦は公にできなかったが、もう試合も終わったので、その理論的背景を明らかにしておきたい。
それはそのまま武術とは何か? を明らかになすることにも繋がるだろう。
●正当防衛が武術をダメにした!
日本の武術では、よく正当防衛を主張する。
闘いでは自分から手を出さず、相手が攻めてきたら仕方なく反撃する、という体系だ。
合気道や古流柔術は相手に胸や手を捕まれるまでじっとして、反撃するし、空手も「空手に先手なし」と言って約束組手は必ず受けから始まる。
とくに、戦後はGHQの思想統制の中で、憲法9条や専守防衛の思想が、一つの闘いの理想とされた。武術とは「矛を止める」すなわち、闘いを未然に防ぐことを主眼とする、という一種の武術コンプライアンスが定着してしまったのである。
その結果、多くの伝統武術がファンタジー化してしまった。
実戦に使えなくなってしまったのである。
当然、使えない武術が巌流島のような格闘技の場で闘える訳がない。
この武術の矛盾とジレンマを酔拳野郎・今野淳は、初めて解決して見せた。
それほど武術の歴史の中で活気的な事をしでかしたのだが、多くの観客の感想は「もうちょっと正々堂々と闘えよ」という格闘技的な闘いを期待する声がほとんどだった。
●真の正当防衛は戦う間合いにいないこと
正当防衛の思想のファンタジー性を明らかにしたのが、喧嘩術の林悦道先生やローコンバットのルーク・ホロウェイ先生だ。
両者とも同じことを言っているが、ホロウェイ先生の説明が分かりやすい。
闘いまでの危険具合を信号機の色と同じに緑から黄色、赤と状況が変化していくと考える。
赤は闘いが始まるので、その一つ前のオレンジで闘いを拒否するアクションを先に選択しなければならない。自分の身体近くのパーソナルスペースに相手を進入させない。進入してきたら、もちろん先に攻める。
したがって、通常の護身術のように胸を捕まれたり、ナイフを突きつけられる状況はない。そこから反撃するのは達人でも難しい。まして女性が大男に行うなどまず不可能。
実際に喧嘩経験の豊富な人たちは、赤ではなく、黄色やオレンジの段階でアクションを起こす。闘いを避けるなら、赤のゾーンに進入される前の黄色やオレンジの段階で先に決断し、逃げるというアクションを起こさねばならない。
こうして闘いを未然に防ぐのが、正当防衛であり、赤の間合いまで相手が来るのを待っては、正当防衛も専守防衛もない。
それは敗北を意味するので、近い間合いでは相手をパーソナルスペースから追い出すように、先に攻め、脅威を速やかに排除しなければならない。
これがリアルな武術や護身術の考えである。
●1ラウンドから2ラウンドへ変化する状況
そして、酔拳にしろ、太極拳にしろ、カマキリ拳法にしろ、リアリティに裏付けられた実戦的な伝統武術は皆、こうしたコンセプトをもとに技や型が作られている。
もうお分かりだろう。
酔拳野郎の1ラウンドは、相手が黄色やオレンジの間合いまでしか入れない。パーソナルスペースに一切相手を入れない正当防衛や専守防衛の動きを闘技場で見せたのである。
しかし、それだけでは巌流島ルールでは勝てない。
2ラウンドは酒を飲んだ酔拳状態を作る。それは相手が赤のゾーンに侵入して来た状況を設定し、一歩も引かず、相手の身体を押し続ける。それが相手の転落に繋がったのだ。
通常の打撃格闘技では、プッシュしてもポイントにはならないが、巌流島の転落ルールを利用すれば、それが有利になる。
リアリティある武術の利を活かし、巌流島という格闘技ルールの中でも勝つことができたわけだ。
酔拳野郎・今野淳の闘いは、まさに酔拳を通して武術のコンセプトを体現して見せた。
また、これまでの武術が正当防衛というファンタジーの中で、いつの間にか実戦性が失われてきたことさえ、我々に気づかせてくれた。
酔拳野郎は、そんな武術の歴史さえも相手に闘っていたのである。