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「怪我を隠すこと」 初出場! 高久空手の靖仁は、実に武道的な生き方を求める選手だった!

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文◎靖仁(高久空手)

文◎靖仁(高久空手)

 

初めまして。錬空武館高久道場の靖仁です。

今回、急遽出場オファーをいただき感謝いたします。

ちょうどTwitterで巌流島の告知を見て、「あぁー俺もこういう舞台で試してみたいな~」なんて思ってつぶやいたら、30分後にはオファーいただき、余りにも驚いて思わず座っていた椅子から飛び上がってしまいました(笑)。

もちろん、いつでも闘えなければ武道ではないと常々考えているため、断る理由はありません。即日快諾致しました。

無論、ここからは己との闘いです。決まってからの10日間、どう自分を高めていけるかに尽きるかと思います。

ここで今回のテーマである「靖仁と高久道場」について書いてみたいと思います。

自分のバックボーンは10歳の時、極真会館城南支部からスタートし、高久館長が独立して今の練空武館に到るまでの18年間に及ぶ空手になります。

この間にワールドユースの世界選手権でロシアの代表選手と二度闘い、大学時代には極真の一般上級選手権に初出場し、当時全日本の重量級のトップ選手と闘い、県大会で3位に入賞したのがフルコンタクト空手ルールでの最後の試合です。

その後、よりルールの制約がない舞台を求め、顔面ありのキックボクシングへと行くわけですが、アマチュア時代に学生キックで全日本を二度優勝したのを境に一度キックの舞台を離れました。

当時、卒業後は文部科学省で国家公務員としてフルタイムで働いており、仕事に追われる日々でしたが、どうしてももう一度闘いたい、プロの世界でどこまで通用するかやりたいとの気持ちが強くなっていたところに、K-1が初のアマチュア全日本を開催するとの連絡を受け、出場し初優勝。それを境にKrush、そして2015年にはK-1のリングにあげていただきました。

普通に考えたら国家公務員としてフルで働き、夜に練習するだけではプロのリングで闘えるほど甘い世界ではありません。しかし、ここで高久館長の教えが強く影響したお陰で闘えたのかもしれません。

それは 「キックのリングでキックボクシングをしない」こと。プロを相手に同じ形で戦えば、稽古量の多い選手が強いのでそれをしないこと。間合い操作、打ち方、コンビネーションを全てセオリーから外すこと、それらを高久館長から学び短い時間の中で稽古し、リングで実戦できたお陰で、今があるのだと思います。

そしてもう一つ学んだこと、それは「怪我を隠すこと」です。遡ること14年ほど前、当時中学2年の自分は大きな大人と組手中に、飛び膝を顔にくらい歯が折れてしまいました。

その時、稽古を中断し館長に「自分、歯が折れてしまいました」と告げると「お前、戦争中に歯が折れたくらいで戦をやめられるのか?」と。

その言葉で自分の甘さを痛感しました。館長がいた当時の極真の城南支部には、世界王者の八巻選手や数見道場の数見館長と錚々たる顔ぶれによる、地獄のような稽古と怪我をも乗り越える逸話を常々聞いていたので、それと比べて自分の忍耐力の低さに恥ずかしくなるような思いをしたことが、昨日のことのように思い出せます。

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それからというもの怪我を乗り越える意識が芽生え、K-1アマチュアで優勝した際も、出場の1週間前のスパーでパンチをもらい鼻骨を骨折。当日中に自分で鼻を元に戻し、セコンドからは「今回の試合大丈夫か?」と聞かれましたが、14歳の時と同じ気持ちを思い出し、もらわなければ良いわけで、それを理由に欠場する意思は全くなく、それよりもこの状況を乗り越えることの方が自分の成長に繋がるのかななんて思っていました。

試合自体は、一度でも鼻に打撃をもらえばドクターストップになるであろう状況でしたが、かろうじてもらうことなく無事優勝することができました。

またその後、文科省時代にKrush3戦目で右足の中指と薬指の中手骨を粉砕骨折した時も、会社には3日間の有給をもらい、手術をしました。

その際に当時、実家暮らしだった自分は家族を心配させないように「仕事で泊まりで働いてくる」と伝えて入院。両親は「骨折してまで泊まりで大変だね」と送り出してくれましたが、今でも手術をし、入院していた事実は打ち明けられておりません。

当時、緊急連絡先と保証人になっていただき、両親にも内密にして頂いた姉には心から感謝しております。この場を借りて御礼申し上げます。

また、K-1のリングで試合中、鼻に左フックをもらい鼻骨を骨折した時は、あまりの潰れ方だったため、整復手術をしましたが、これも両親にはバレないように両親が寝るまで自宅には帰らず、朝は急いで出社するなどしてバレないように、そして黙っていました。

しかし整復後、アバターのように腫れている顔を見た親から「顔腫れているけれど大丈夫?」と一時、聞かれましたが、すでに5日ほど手術から経過していたので、練習で腫れたとごまかしていました。

また、昨年8月の試合で右手親指をベネット骨折した際もあえて伝えず、会社でもバレないように簡易ギプスを外し、テーピングでの固定に切り替えて、右手が使えないなら左手でマウスを使えるようにしようと、日々試行錯誤し、今では左手でないとマウスが操作できないほどになりました。

これらも全て、14歳のときの経験がなければ、忍耐力がつくこともなかったですし、会社員としてフルタイムで働く傍らで、今も強くなることを目標に怪我を乗り越えて、日々鍛錬を続けることはできなかったかもしれません。これも高久道場で学んだからこそ今があるのだと思います。

考えてみれば武術は生き死を想定してある術であれば、怪我をしたからどうのとは言ってられないですから、そうした心を育ててくれた高久館長には感謝してもしきれません。

また、スポーツではなく武術・武道を信条とし、年齢を重ねても鍛錬を重ねる高久館長の凄さと言えば、40代後半に差し掛かっているにも関わらず、前蹴り一発で悶絶させられるなんて想定もできないようなことを、我が身の痛みを持って教えてくれます。

自分自身の目指す武術がそこにはあるということを教えてくれ、また引退という概念がない武術修行の道を先んじて切り開いてくださる道を自分は追いかけていきたいと思っています。

その修行の最中、「巌流島」という非常に魅力的な舞台からオファーをいただいたことは物凄く光栄なことです。

限りなく実戦に近いルールで自分が鍛錬してきたものがどう活かせるのか、考えれば考えるほど楽しみです。

会社に出勤する途中、耳の潰れた人を見る度に「もし、彼が襲ってきたらこう闘おう」と毎日考えて過ごしている身としては、あと一週間後に日本拳法の使い手としかわからない人間と果たし合いを行えることは、武道を志す者としてこの上ない幸せです。

また、この舞台を得て自分に還元できる何かを得られるよう、精一杯精進して当日を迎えたいと思います。高久空手の使い手として負けるわけにはいきません。

この場を提供くださった谷川プロデューサー、柴田様、巌流島のスタッフの皆様、心より御礼申し上げます。

押忍!

5.11巌流島の大会情報はコチラ⇒ 『世界武術王決定戦 2019 in MAIHAMA