誰も見たことのない総合格闘技がある。打、投、極は既に融合していた。
6月29日(水)のブロマガ………お題「異種格闘技戦の醍醐味と矛盾」
異種格闘技戦の醍醐味と矛盾は、前回書いた。今回は、本当の総合格闘技の姿はどのようなものか?について考察してみよう。多分、多くの人には理解できないと思うが、それは仕方がない。私も気づくまで、武術を学んでから何十年もかかってしまった。それほどややこしい内容を、この短い文章の中で語りつくすのは不可能であるが、一つの問題提起ぐらいにはなるだろう。
まず、伝統の武術は多様な現実世界の戦いに対応するためのものであり、世界各地には、民族性や地域性に影響を受けた様々な伝統武術が伝えられている。古い武術は、いわゆる戦争のための技術であるから、集団戦と武器術を基本にしている。村に野盗が襲ってきたら、皆で武器を取って戦う。現代だって、家に泥棒が浸入してきてるのを見つけたら、誰でもバットやゴルフクラブなどを手にするはずだ。
こうした自衛のための武術は治安の悪い時代や地域では、当然の如く発達し、伝承されて来た。これが伝統武術であり、日本でも、他の国でも同じだ。
そして格闘技とは、こうした多様な武術から、技術を抽出、細分化し、パンチだけのボクシングや、組み技だけのレスリング、もしくは剣だけのフェンシングなどが生まれた。いわゆる格闘技だけでなく、オリンピックのほとんどの競技は戦争の局面の細分化から生まれたのだが、今回は格闘技だけに話を限定しよう。
では、細分化した技術を再び融合させたら、元の武術に戻るのだろうか? こうした実験を正面からとり組んだのが、佐山サトル氏だった。打、投、極の融合を目標にシューティングを創始したが、ここにグレイシー柔術のポジショニングの概念が加わると技術が一新してしまった。打、投、極の技術は等しく発展せず、ポジショニングを優位に運べば、打も投も必要がなくなる、という理論的矛盾とぶつかってしまったのだ。
総合格闘技の矛盾に最も早くぶつかり、その解決に向けた動きを行なった佐山氏は、その後、α、ωや掣圏道、掣圏心陰流、などの新しい武道の創設に向かう。巌流島ルールに極めて近い、場外押し出しと寝技時間が短い総合ルールを一番初めに提唱したのも、佐山氏である。ある意味、巌流島を含め、日本の総合格闘技界は常に佐山氏の実験の後追いをしていたとも言える。
巌流島ルールのように押し出しや、短時間の寝技を認めるルールは伝統の武術に近づいたが、むろん武術そのものではない。多人数、武器の使用、環境の武器化など、武術の大切な要素は取り込めていない。また、ルールが成熟して、独特の技術が誕生したり、進化、研究された段階ではない。
ならば、本当の何でもあり、本当の総合ルールであった伝統武術では、打、投、極は歴史の中でどう発展していったのか、という視点で見るとようやく武術の奥深さに気づくことができる。
答えを先に書くと、伝統の武術では、打、投、極を分化すると技は曖昧となる。なぜか? その方が実戦的だからだ。
私も長年このことに気づかず、太極拳や八極拳を打撃技の観点のみで見たり、時には投げ技、時には関節技の観点のみで技術を追求していた。当然、どの技も中途半端である。ボクシングほどパンチは使いやすくないし、ムエタイほど蹴りは威力がない。柔道や相撲ほど投げやすくもない。
当然だ。それらの技は打撃を入れながら、倒したり、打撃を入れながら、関節を痛めたり、飛ばしたりする技ばかりだ。試合場ではなく、環境を利用して、複数や武器に対応しようと思ったら、そうするのが一番手っ取り早い。別にアマチュアボクシングのように、ナックルが正確に当たらないとポイントにならない、とか掴んでなぐってはいけない、などの規定はない。殴りながら押しとばす。打ちながら倒す、という技こそ実用的な技であり、それらはいずれも打撃、投げ、関節などの格闘技ジャンルをはみ出した発想の技だ。
私は林悦道先生の喧嘩術の発想を得て、こうした昔の武術の実戦性に気づいた。喧嘩術の投げも蹴りも、いずれも打撃なのか投げなのかわからないようなジャンルが曖昧な技である。林先生の喧嘩術の演武を見て、打撃格闘技的なキレがないと思った人は多いだろう。だから実戦的なのだが、その事に気づいた人はほとんどいなかったに違いない。私も長い間気づかなかったくらいなので、これはしょうがない。
喧嘩術と言えば、裏社会で伝説のステゴロ名人、映画や小説にもなった安藤組の花形敬氏がいた。真樹先生と激闘をしたことでも知られるが、花形氏の得意技はショルダーアタック。ダメージを与えると同時に相手を路上に吹っ飛ばし、一撃でのばす。相撲取りでも、この一撃で沈んだというのだから凄い威力だ。
打撃でもあり、投げでもある体当たり技だ。リングの上ではあまり効果もなく、ポイントにもならないような技だが、硬い路上やビルの壁がある街中で戦うなら、最強の技かもしれない。
なぜこんな話しをしたかと言うと、中国武術で威力があると言われる八極拳、心意六合拳などはこうした肩の体当たりを基本にする武術だからだ。心意六合拳などは、上海では一時修行の禁止令が出たほど、危険な武術である。日本では健康体操として知られる太極拳も、本来はこうした体当たりや押し飛ばしを得意とする実戦拳法である。敵の力を利用して、壁や地面に相手を叩きつける練習を徹底的にするので、ある意味一番のタチの悪い拳法かもしれない。
世界の特殊部隊や軍に戦いを指導している現代のプロの喧嘩師、ルーク・ホロウェイ氏も太極拳の実戦性を認め、威力があり過ぎるため、自ら禁じ手にしている、と語っていたほどだ。
打、投、極。佐山氏が目指した細分化した技の融合。その姿は我々に知られることなく伝統の武術の中にひっそりと伝えられていたのである。しかし、その技は、我々がスポットライトを当てて試合場で見ようとした瞬間、蜃気楼のようにたちまち姿を消してしまう。
もし巌流島で、そんな武術の姿を彷彿させる、打、投、極の融合技を見ることができたら、と思うと否が応でもロマンを掻き立てられる。それは、我々が見たことのない総合格闘技の姿であるはずだからだ。