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菊野選手が見せた拳の極意。わずか4秒の交錯が意味するものとは?

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8月5日(金)のブロマガ………お題「7.31巌流島・有明大会の感想」

文◎山田英司(『BUDO-RA BOOKS』編集長)

文◎山田英司(『BUDO-RA BOOKS』編集長)

 

今回の巌流島で私が注目していたのは、菊野選手の正拳と、クンタップ選手のムエタイ式正拳の激突であることは試合前に述べた。そして、菊野選手はその期待通り、いや期待をはるかに超える武術の真髄とも言える動きを我々に見せてくれた。菊野選手はムエタイ強豪に右正拳のカウンターを見事にヒットさせた。わずか4秒であったが、その時間はこれまでの菊野選手の選手生命が凝縮された極めて濃密な時間であった。

UFCでの敗戦を機に菊野選手は、前に出ることの大切さを痛感し、「それのみを考えて試合に臨む」と試合前に語っていたが、もし、それができれば、クンタップに勝てると思っていた。逆に言えば、それが一番難しいのだ。

真剣で斬り合う時の極意に、「切り結ぶ刃の下こそ地獄なれ。一歩踏み込め、そこは極楽」という言葉があるが、命を賭けた闘いでは、要は前に出れるかどうかが勝負だ。様々な剣の技法は前に出るための条件反射作りに過ぎず、究極の極意は前に出る。ただそれだけである。

かつて新空手が顔面有りのルールを空手界にアピールするため、作ったキャッチフレーズが、「一歩前に出る勇気」だった。新空手代表の神村さんは、素面に顔面パンチがとんできたら、誰でも恐怖感を感じる。そのシュチュエーションで前に出るから、心が強くなるのだ、と言って防具付きルールとの差別化を図った。

実際、私もこのルールに参加したが、顔面なしや防具付きとは恐怖感の比が違う。やったことのない人は、防具付きをやっていれば顔面パンチの攻防が身につく、とよく言うがそれは違う。

新空手にも防具付きのK-3から、素面のK-2に上がってくる選手が多いが、それまでガンガン前に出てた選手がいきなりヒットアンドアウェイの闘いしかできなくなってしまう。そんなケースをよく目にする私は、むしろ防具付きは弊害がある、とさえ思う。顔面無しは言わずもがな、であるが。

それほど素面にパンチが飛んでくるシュチュエーションで前に出ることは難しい。まして、グローブより恐怖感のあるオープンフィンガー、しかも相手がムエタイ強豪、初めて経験する未知のルール、メインをはる重圧。菊野選手に恐怖感を与える条件は揃いすぎるほど揃っていた。

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クンタップの左パンチを左手でインから絡め、右ストレートには右正拳を合わせる菊野克紀

 

私は菊野選手が試合の一週間前にわざわざガチ甲冑合戦に参加した気持ちが分かる。おそらく甲冑合戦では勝てないことを承知で菊野選手は参加をしたのだ。そして本当の合戦ならば殺されていた、という体験、即ち死の疑似体験をすることにより、自分の恐怖感と正面から向かい合おうとしたのだろう。死の恐怖感を感じつつも前に出る。その心のあり方を菊野選手は万人の前で見せた。

忘れてならないことは、恐怖感を克服して前に出る、という意味は、恐怖にかられて前に出ることとは違う。冷静に相手と自分を客観視しつつ刃の下に身を置くのだ。菊野選手は前蹴りでタイ人を崩したあと、相手の左パンチを内側から左手で絡め、相手を崩し、かつ次の右ストレートを頭を左にスリップしつつ右正拳。わずか4秒の交錯の中で、全ての相手の動きに反応し、そして潰していた。まるで精密機械のような動きである。この集中力は、おそらくランナーズハイのようなゾーンに入った人間でないと出来ない動きだ。

そもそも昔の侍が、なぜ禅を修行したか? 禅の極意とは、恐怖感を消すことではなく、恐怖を感じる自分をも客観視することだ。これを闘いの場に応用すると、死の恐怖と向き合いつつも、自分と相手の動きを第三者の視点で冷静に見ることができる。それができれば、刃の下でも精密機械のように自分が動くことができる。目的はそこまでで、その結果負けることもあれば、勝つこともあるが、極めて勝つ確率は高くなる。勝とうという意識が先行すると、この境地には至れない。それが禅の教えである。

そう言えば菊野選手が試合前に言っていた興味深い言葉がある。

「UFCでは、勝とうという意識が強すぎて、前に出れなかったのではないか」という反省と総括の弁である。

その言葉の上に、今回の試合を行ったとすれば、おそらく菊野選手は、昔の侍が禅によって、たどった心的過程をそのまま歩んだことになる。勝つことの執着を捨て、ただ前に出るだけ。その心的境地を、侍達は「悟り」と呼んだのである。

菊野選手が巌流島で見せたのは、わずか4秒の交錯であったが、剣と同様、拳にも悟りという境地がある、ということを我々に知らしめるには充分な時間であった。