猪木信者はどう見たか? 精神を病みながら作った猪木大年表!
12.28『INOKI BOM-BA-YE×巌流島in両国』が盛況に終わった。猪木信者を自負する自分から見ても、なかなかの猪木的なカードが並び、猪木さんの追悼にふさわしい大会だったと思う。個人的には猪木年表の製作に関わったのですが、それについてちょっと大変なこともあったので書いてみます。
このイベントの噂を最初に聞いたのは7月末のさいたまスーパーアリーナ。谷川さんが年末に向けて構想を練っていると。猪木さんの体調は大丈夫なのか?とも思ったが体調は上向きらしいとのことだった。
猪木さんがやるイベントは久々で、しかも猪木さんがリングに上がって復活宣言する。猪木さんのことだから自分の足で歩いてリングに向かうのではないかなど、想像するだけで頭の中に炎のファイターのテーマが鳴り響きワクワクした。それと谷川さんがやってる巌流島について猪木さんの感想なり意見なりが聞けるのではないかという興味もあった。
というのも、猪木さんがよく言っていたのは「俺がIGFに求めてるのは、闘いがあって、これまでのプロレス格闘技の延長にない全く新しいもの。それを見つけろ」と。それって谷川さんの巌流島に当てはまるなと思っていたので、その答えが聞けるなと。
8月に入ると、猪木さんも精力的にNHKの『ライブエール』や日テレの『24時間テレビ』にTV出演。IGFが復活。9月に入ると年末イベントの日程が決まり会場も押さえたという話や、猪木さんがYouTubeをやりたがっているという話が聞こえてきて、猪木さんの復活劇が着々と近づいてきてるのが楽しみで仕方なかった。正式発表されたら全力で応援しようと思っていた。10月1日。その矢先の訃報だった。
今でも思い出したくないのだが、人生で一番ショックな出来事かもしれない。それ以降、完全にうつ状態。何も手がつかず、猪木さんの訃報に関する記事などを目にしただけで呼吸困難になったりしたから、そういう情報は意識的に避けた。
精神的不安定な状態は続いていたが、お通夜、告別式後の10月18日。銀座のIGF事務所に呼び出された。そこには谷川さんがいた。前にもカラオケで一緒になったりしたこともあったので(ターザン山本さんとのYouTubeの撮影をしました)、初めましてではない。
「12月28日に両国でINOKI BOM-BA-YEと巌流島のコラボでイベントやります」と告げられ大会の趣旨を聞いた。言うことや考えていることが猪木さんとダブる。猪木さんが「谷川に任せとけば大丈夫だ」と言っていたのが頷けた。
次に「お願いしたいことがあって、会場に年表をずらりと並べたいのでそれを作ってくれない?」と言われた。えっ聞いてないんですけど?と一瞬思った。あらかじめ聞いていたのは、12月28日にお別れの会を兼ねたイベントをやるので猪木グッズに関して協力して欲しいということだったからだ。一瞬迷いはあったものの、そこは「迷わず行けよ」の精神だ。猪木さんの歴史ならある程度は頭に入っている。年表なら楽しそうだし、簡単だなと気軽に引き受けた。
頼まれていた猪木さんの主演映画『ACACIA』のDVDを谷川さんに渡したら、「これ見たかったんだよ」と喜んでいた。「猪木さんの追悼番組がテレ朝チャンネルで三夜連続放送されたらしいですよ」と伝えると「それは録った」と、谷川さんも完全に猪木ファンだなと一気に親近感が湧いた。
翌日、さっそく年表の製作に取り掛かろうとした。ところが問題が起きた。年表を作ろうとすると異様な胸騒ぎが押し寄せてくる。胸が締め付けられる。体が拒否反応を示している。 10月1日以降、猪木さんの情報をシャットダウンしていた弊害か? 無理にやろうとすると過呼吸になる。とりあえず、その日はやめたが、一週間経っても状況が変わらなかったため近所のクリニックで心電図検査を受けた。やはり異常が出た。すぐにでも大きな病院で精密検査した方がよいとのことだった。
だからといって病院に行く気はさらさらない。病院嫌いだから。原因はわかってるので時間が経てば良くなるのではないかと思った。精神を安定させるために、独自にいろいろ試した。その中で一番効果があったのは猪木さんのサインを真似して書くことだった。何気にやってみたことだったが、ひたすら書いてると無心になれて気持ちが落ち着くのがわかった。これは大発見。しばらくして写経と同じ効果なんだなと気づいた。すでに11月後半になっていた。ヤバい。
いよいよ時間がなくなってきたので、年表の製作に取り掛からなければ間に合わなくなる。最初こそ息苦しさはあったものの、徐々に平気になってきた。これなら大丈夫だと。そこからは楽しくなりハイテンションで進めた。しかし、このペースでは間に合わない。猪木さんの79年の濃すぎる人生をなめていたなと反省した。11月中に入稿予定だったが、12月20日ぐらいまでギリギリまで待ってもらってなんとか完成した。
当日は両国国技館内に年表がズラリと並べられた。50メートル近くの長さになったので壮観だった。どんな人が見るのかなと観察していると、思ったより若い人が見てくれて、親子で閲覧している光景も見られた。アントニオ猪木の闘魂を未来に繋げるという大会のコンセプトに一役買えた気がして感無量。自分なりに猪木さんへの弔いを形にできて良かった。その機会を与えてくれた谷川さんにも感謝します。猪木年表はまだまだ付け足したいところもあり未完成な部分もある。ぜひ次回大会にも繋げたい。
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