ドーピング議論の大前提
前回の寄稿では、ドーピングがなぜダメなのかを書いたが、その一番の理由はスポーツの大前提である「公平」「平等」の精神に反するからだ。つまり、これは明らかな卑怯な行為。だから世間は騒ぐし、怒る人がでる。
では、スポーツが「公平」「平等」をどう担保しているかというと、それは「ルール」である。さらにプロ選手となると、ここに「契約書」が加わる。つまり、「公平」「平等」を作っているのは「ルール」と「契約書」である。
日本人は特にそこに「性善説」とか、「倫理観」が加わるが、ドーピング問題を語るとき、一番重要なのは「ルール」と「契約書」なのだ。
何が言いたいかというと、平本蓮のドーピング問題のSNSの意見を見ていると、「血液検査をすべきだ」「頭髪検査をやるべきだ」というのがあるが、ドーピング検査は、各スポーツ、各団体によって検査方法がマチマチに違う。日本の格闘技団体として最先端をいくRIZINにはRIZINのドーピング検査基準があり、それをクリアするかどうかで判断するしかない。
RIZINはタイトルマッチや当日無作為で選手を選び、試合後に尿検査、それをアメリカの検査機関に提出しているそうだが、そこで陰性ならば、ドーピングはシロ! 陽性ならばクロということになる。つまり、ドーピングが疑わしいとか、試合後またドーピングして、試合が近づけばドーピングを抜いてるとか、それは関係ないのである。検査をクリアするか、どうかが全てなのだ。
以前、あるキック団体で試合に負けた選手が「あいつはドーピングしてる」と言いはじめて、途端に勝った選手にドーピング疑惑が浮上した。SNS時代は特にそうなる。
でも、聞くところによると、そのキック団体ではドーピング検査をしていない。ドーピング検査をしていないということは、「ルール」に違反していないし、検査してないということは証明されないから極論すればドーピングはやっていいのだ。仮に選手が不満に思うなら、相手選手を口撃するのではなく、本来は主催者を口撃するべきだし、そもそも「そういう団体の試合に出て闘ったお前が悪い」ということになる。
日本人はともかく、欧米人は特にそういう考え方をする。世界で闘う場合、性善説や道徳観、倫理観は関係ない。決められたルール、決められた契約書に則って、反則ギリギリで相手に勝つ。それが常識だと考えた方がいい。
日本ではボクシング界はドーピング検査が進んでいるが、国技と呼ばれる大相撲はドーピング検査をしていないという。ということは、力士はドーピングして身体を大きくしたり、強くしても良いと容認していることになる。そういう検査をしていない団体、ジャンルにとっては、極論すればドーピングはしてもいいのだ。個人的にはボクシングはスポーツで、相撲は無差別の武道だからそれもアリだと思う。
今回のドーピング騒動で感じたことをまとめると
①スポーツ格闘技では「平等」「公平」に競い合うものだから、ドーピングは卑怯であり、「公平」ではなくなるからダメ。
②特に格闘技では、ドーピングをやっている人間の身体の危険性よりも、薬物のパワーで攻撃を受けた方のダメージが甚大なものになり危険。
③その公平性を担保するものは「ルール」と「契約書」しかない。
④ドーピングの検査方法は各スポーツジャンル、格闘技団体によって様々であり、ドーピング検査をしていないところも多い。
④ドーピングをしているか、していないかはその検査に引っかかればクロであり、引っかからなければシロ。検査結果が全て。それ以上でも、それ以下でもない。
⑤ドーピング問題は医学の進歩と、世間の声を聞きながら、主催団体がレベルを上げていくしかない。
ということになる。この大前提がない意見はナンセンスだということを学んだ気がする。そして、足の引っ張り合いではなく、前向きに議論していかないと、また格闘技全体のイメージが悪くなるだけ。
また、それもRIZINの問題ではなく、日本の格闘技界の主催団体が「ウチはドーピングとどう向き合うか?」という踏み絵をしっかり踏んで答えを出すことが、団体の人気・評価に大きく影響する気がする。
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