『巌流島』が最強であるために闘わなければならない相手がいた!
niconico動画の『巌流島チャンネル』でほぼ毎日更新していた「ブロマガ」が、オフィシャルサイトでパワーアップして帰ってきました。これまでの連載陣=谷川貞治、山田英司、ターザン山本、田中正志、山口日昇に加え、安西伸一、クマクマンボ、柴田和則、菊野克紀、平直行、大成敦、そして本当にたまに岩倉豪と、多種多様な方々に声をかけていく予定です。ぜひ、ご期待ください!
5月16日(月)のブロマガ………お題『巌流島・公開検証Final』に期待すること
『巌流島』に期待することと言われても、もう散々書いてきたし、今さら何も付け足すことはないのだが、武術界、格闘技界の中での巌流島の立ち位置を確立して行くためには、コンセプト的な確立はそろそろ求められるかもしれない。
何しろ巌流島が終わって、今日までで、もう早くも格闘技界は動いている。UFCの放送撤退に対し、K-1のメディア戦略の積極攻勢は注目すべきだ。キック界も裏で色々な企画が進んでいることを耳にする。
また、極真松井派のルール改正が象徴するように、空手界もオリンピックを念頭に置き、様々な動きがある。一言で言えば、格闘技界の流れは、総合から再び、立ち技、打撃系へ人気がシフトしつつあるようだ。
こんな中で、『巌流島』は総合ルールでもなく、単なる立ち技でもなく、武術をコンセプトとした試合の場として、明確な求心力を持つ必要がある。そのためにも、寝技重視から立ち技重視の新しい武術、格闘技像を提案していくことが、コンセプトの重要な核となるだろう。
その根拠はいくつかある。まず、世界の伝統武術には、原則的に寝技はない。武術は護身の目的があるので、対複数や、対武器を想定して発達しており、このような局面で、自ら寝技に持ち込むことは命取りである。むろん自ら望まなくても寝技に持ち込まれることはあるため、そのための対処は必要である。しかし、寝技を極め技に持ってきて勝敗を決するという発想は基本的に武術的ではないと認識するべきだ。
では、どうしてそのような誤った認識が一般化したかというと、バーリ・トゥードを始めとする総合格闘技ルールが一般に広まったからだ。武器にする物が何もない閉ざされた空間で男が裸で一対一で闘う。一見、男らしく思えるが、喧嘩経験の豊富な林悦道先生もそんな局面を見たのは、風呂屋でオジサン同士が喧嘩になりそうになった時くらいで、自らの体験では一度もないそうだ。喧嘩相手も、暴漢も、常に日常生活の中で現れる、というリアリティを元に武術は成立しているのだ。
従って、もし『巌流島』が武術の再発見をテーマにしたルール作りをするならば、総合格闘技の過ちを繰り返してはいけない。
総合格闘技の過ちを一言で言えば、格闘技の歴史に逆行したことだ。そもそも格闘技とは、日常の中での多様な闘いの局面を切り取ってルール化したものだ。戦士を訓練するためには怪我もなく、確実に地力をつけることができる体系がスポーツであり、格闘技であった。スポーツの上達論でも細分化トレーニングというものがあるが、これと同じである。マラソンランナーが最後のダッシュ力をアップしたかったら、マラソン練習だけでなく、ダッシュ練習を重点的に行わなくてはならない。
同じように打撃力を増したいならムエタイが、パンチ力を増したいならボクシングが、投げる力を増したいなら相撲や柔道が効果的である。必然的に格闘技の歴史は細分化の歴史にならざるを得ないのだが、その歴史的必然と逆行して成立したのが総合格闘技である。従って、細分化された格闘技は、それ故に効果的なのだが、これを「何でもあり」じゃないから実戦的ではない、という考え方自体が論理的に破綻しているわけだ。さらに言えば、総合だろうが、立ち技だろうが、武術に比べたら全て「何でもあり」ではない。
このことを理解すれば、細分化した格闘技を再び融合させる「総合ルール」を組み立てるとき、いかに武術のコンセプトから遊離せずにバランスを維持したまま、ルールの間口を広げることが大変なことかわかる。伝統武術の立ち位置を確認しつつ、どう細分化し、また、融合させるか、微妙な手綱さばきの伴う試行錯誤が必要になってくるだろう。
無論、私が考える実戦的なルールと言うものはあるが、興行的に成り立つかどうかの視点は一切無視しているのでここでは触れない。
興行的な成功を狙う『巌流島』としては、前述のような手綱さばきが求められる試行錯誤ができる強みを発揮するべきだ。それがまさに「公開検証」である。実際に伝統武術家をこのルールで闘わせ、力を発揮できるかどうかを見極める。乱暴な方法だが、ある意味確実な方法だ。
3月25日の「公開検証3」の結果を見ると、世界各地の伝統武術は力を発揮できた、と評価していいのではないだろうか。この方向で、巌流島コンセプトを確立していってほしいが、その路線を進もうとした時、最も壁になりそうなのが、未だ総合最強幻想を抱くファンや関係者の旧体制的な感性だろう。
何でも新しい価値観を提案しようとしたときには、古い価値観との闘いは避けられない。しかし、これが最も強敵なのである。