GANRYUJIMA BLOG巌流島ブログ

田村対ヨモの一戦は昭和を飛び越え、明治期の匂いがした

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

8月9日(火)のブロマガ………お題「7.31巌流島・有明大会の感想」

文◎平直行(巌流島・審判長)

文◎平直行(巌流島・審判長)

 

1976年6月26日、日本武道館で行われたA猪木対モハメド・アリの格闘技戦から40年後の検証試合として、田村潔司対エルヴィス・モヨの1戦が組まれた。

あの頃、僕は中学1年生だった。日本中のお父さんがテレビの前で、プロレスやプロ野球を晩酌しながら見てた時代があったのです。当時、この異種格闘技戦は試合の前から世間の注目を集めていた。ワイドショーとかでも試合前に取り上げていたのを覚えている。当然、中学校でも話題になっていたのを思い出す。

猪木さんの異種格闘技戦の翌日、学校に行くとA猪木似の女の子に男子たちはこぞって、昨日はお疲れさん、等と声をかけたのを思い出す。大体A猪木似の女の子なんているのでしょうか? その子は実は可愛い、少しだけ顎が大きかった。それで男子たちは声をかけるわけです。その子もすごいのです。きちんとありがとうとか返事してくれる。それでその子の人気はまたうなぎ登りになるわけです。昭和の時代は面白い。昭和の時代はプロレスが暮らしの中の風景だった。それから40年を経て、僕は検証試合のレフェリーを務めることになる。人生はなかなか面白い。

今回の検証試合は、総合格闘技という概念が生まれ闘い方も洗練された時代に、もう一度あのルールでボクサーとレスラーが闘ったら一体どんな試合になるのか? それを検証する試合。

実はモヨ選手は、総合格闘技を9戦やっている。しかも田村選手よりも30キロ重い。強烈なパンチもあるし、腰から下のタックルを禁止したルールだったら、総合格闘技をやれば圧倒的に有利。

試合前に田村選手と話をした時にもその話題が出た。ルール上は、モヨ選手はキックを使ってもよい。モヨ選手はすべてのキック攻撃が許される。ローキックはレスラーにのみ禁じられているという40年前のルールと同じになっている。

40年前のモハメド・アリがローキックを使う姿は想像しにくい。ところが2016年のモヨ選手はいくらでも蹴ることができるのだ。蹴らない保障はどこにもない。むしろ蹴ってくると考えるのが自然な流れになる。単純な格闘技の試合ならそうなる。

試合前に田村選手からルールに関して要望があった。腰から下のタックル禁止もローキック禁止もかまわない。ただし、これだけは禁止してほしいと一つだけ要望が出た。首相撲からの膝蹴りは禁止にしてくれないか、と。体重差が30キロあって、低いタックルが禁止だったら、上半身に組み付く以外戦法はない。そこで首相撲で押さえられて長い時間そのままだったら試合の流れが止まってしまう。だから首相撲はなしにしてくれないかと。

試合に勝つためではなく、試合の流れを止めないために、たった一つのルールの変更を望んだ。それを聞いたモヨ選手もセコンドのスティーブもすぐに了承した。何一つ文句も言わないでOKしてルールミーティングはすぐに終わった。実はこのやりとりが翌日の勝敗を分ける大きなポイントになっていたことに、この時僕は気がつけなかった。

実は猪木アリ状態と呼ばれる、ボクサーが立ってレスラーが寝た状態の闘いは、明治時代から記録が残っている。猪木さんと同じことを明治の時代にはすでに行っていたのだ。

明治時代に行われた柔拳(じゅうけん)と呼ばれる興行。柔術家対拳闘家の闘いを見せる興行は日本各地で盛んに行われている。興行なのでプロレス的な勝敗なのか、格闘技的な勝敗なのか? それは今では分からない。きっとどちらもあったように思える。その時の試合の中で実は猪木アリ状態になった記録が残っている。打撃対組技の闘いは噛み合わない。こういった試合で自分を守り、有利にしようと思えば猪木アリ状態に自然になるのだろう。

闘いの中で起こる人の自然な本能に従った闘いの方程式が猪木アリ状態なんだろう。グレイシー柔術のガードポジションからの攻撃も、考えてみれば猪木アリ状態の間合いを詰めた状態。打撃に対して寝れば打撃は効力を発揮できなくなる。寝ながら脚を前に出して守る相手の顔に、ボクサーがパンチを打とうとすれば、寝技の餌食になる。一対一ならこの方程式は正しい。この方程式を崩すには総合格闘技のガードポジションの理論を手に入れる以外方法はない。

総合格闘技の技術も理論もなかった時代には、柔術家がボクサーと闘う時に猪木アリ状態は非常に有効な方法になる。おそらく人間の本能的な選択によって産まれる闘い方だから、明治の時代にも自然にやっていたんだろう。殴られるのをかわすには、実は自分が寝て殴りあいを拒絶すれば簡単になる。

格闘技のプロは格闘技のテクニックを駆使して攻防を競い合う。格闘技のテクニックは人の本能を巧みに利用して作られる。ワンツーはワンを見るからツーが当たる。真剣に闘えば闘うほどに、相手の動きを注意深く真剣に見るのが人の本能。ほとんどの技は、本能的な人の反応を利用してできている。

優れたボクサーは本能の動きを利用し、騙されないためには自分の本能を制御してまで闘う。優れた格闘技のプロとは本能をコントロールすることさえ出来る。パンチを喰らって意識がない状態でも闘い続けることが出来る。これは人の本能とは違った行動になる。これが格闘技のプロだったりする。

DSC_8897

田村対モヨの1戦は本能を制御して、意地を張って闘い合った。モヨは総合格闘技の経験と技術を封印してボクサーとして試合を行なった。これが田村選手に何かしらの影響を与えてしまった可能性がある。何しろ首相撲を禁止してくれと前日にお願いしているのだ。相手が蹴ってくることも想定して試合に望んでいる。自分は禁止のローキックも相手にはOKの技になっている。キックボクシングやフルコンタクト空手の試合で、一方はローキックOKでもう一方は禁止で試合を行なうことはありえない。いくらなんでも不公平過ぎるからそんな試合はありえない。この試合ではそれが許される。だから試合中にいつ総合格闘家に変貌してくるのか? もしかしたら余計なことを考えて集中力が分散した可能性も高い。

モヨ選手は競技者の本能である何が何でも勝つ闘いを封印した。本当はやってよいはずのボクサー以外の技術を封印して試合をやった。フィニッシュになったパウンド以外は、モヨ選手は優れたボクサーとして闘った。

試合中不利になった田村選手は、終盤に猪木アリ状態に自らなった。それをやればKOされる不安は消える。体重差もあるし、このまま試合は終わるのかな。レフェリーをしながらそんなことを感じたりした。手脚をもがれたような状態でダメージもある。このまま安全な猪木アリ状態で試合をやり過ごしても、ある部分では理解が出来る。ところが田村選手は立ち上がり攻防に戻った。そして試合はモヨ選手のKO勝ちで終了した。

自分の身を守るという当たり前の本能を捨て去って、田村選手は観客の前で闘うことを選択した。モヨ選手も総合格闘技のテクニックを封印して、ボクサーとして試合を続けた。

巌流島は「武道」というキーワードを持つ。武道と武術とは違う。そして格闘技とも違う。この差を明確に打ち出すことが必要だと思う。武術とは戦国時代の生き残るための技術。だから何をやってでも相手に勝つことを最優先する。卑怯とは武術においては賞賛される。よくぞここまで考え抜いたと賞賛される。巌流島に遅れて来て、刀ではなく、佐々木小次郎の長刀を凌ぎ軽く扱いやすい船の櫓で対峙し勝った宮本武蔵。あれを剣道の試合でやったら後世に名を残すどころか、永久追放になる。

武道とは礼節を守り、正々堂々と勝負をする。明治維新において武術は衰退の憂き目にあった。黒船来航を期として明治維新が起こった。黒船や外国の最新の銃器を相手に、どんな優れた武術家でも敵う筈などないのだ。だから武術は衰退し、その代わりに武道が発展したという経緯を持つ。

日本を外国から守る為に明治維新は起こり、日本は改革した。改革した日本を支える人材の教育、体育として武道は発展した。武術は武道となり、技術は一新された。それまでの殺し技、そして卑怯に相手を欺くような技は排除され、お互いに正々堂々と競い合う技で再編纂された。正々堂々と相手と技を掛け合い試し合う、それによりお互いの体力と精神そして技術を向上させる。自他共栄といった概念を柔道はかかげている。

初期の柔道は、お互いに道衣を充分に持った体勢から始めた。それを嫌い、組み手争いをするような輩は卑怯者と嘲笑されたという。目的が体育なのだ。体を鍛え、正々堂々と相手と向き合い技を試し合う。勝てば奢らず、負ければそれを糧とし、原因を解明し弱点を補強する。その繰り返しで日々精進を繰り返す。

柔道の白い道衣と黒帯、この2つの関係は葬式を表すと聞いたことがある。負ければ死、ただし柔道の試合では死なない。かつての死合と試合は全く違う。負けることで何かを掴み、また生き返る。その繰り返しが道を進み、極めることである。負けとは、それによってまた生まれ変わるという意味を武道は持つ。そういった古い柔道の話を聞かせて頂いたことがある。

巌流島の武道とは、正々堂々と相手と向き合い試合を行なう。勝ち負けのみに姑息にならず、技を出し闘う。負けは死ではない。次に繋がる経験となる。負けによって成長した自分を次に見せればよい。姑息な自分を人前で見せることこそが、自分の死である。

そう考えたのが明治期に武道と関わった方々。田村対ヨモの一戦は、昭和を飛び越えた明治期の匂いもした。日本と南アフリカの2人が見せた世界に、僕はそんなことを感じた。巌流島の未来は武道をいかに現代のプロ格闘技として実践するのか、にあるのかもしれない。