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実は、オリンピックとは『巌流島』だったのである!

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8月26日(金)のブロマガ………お題「日本人とオリンピック」

文◎山田英司(『BUDO-RA BOOKS』編集長)

文◎山田英司(『BUDO-RA BOOKS』編集長)

 

リオ・オリンピックは日本が金メダルを12、メダル総数41で過去最高となった。ナショナリズムを刺激されるオリンピックは、各国とも自国のメンツをかけてメダル取りに躍起になる。当然だ。オリンピックは国力を示す代理戦争だからだ。よく、オリンピックは「平和の祭典」と称されるが、これは皮肉ではなく、ある意味正しい。

国力を示すために、実際に闘ったら大変だが、擬似戦闘ならば死者や怪我人は出ないからだ。そう、これは何かと構造が似てないだろうか。実際に闘うと命を落としかねない武術の果し合いや、合戦での戦いを、細分化し、ルール化し、安全に競う。そうして生まれた格闘技と武術の関係は、まさにオリンピックと戦争と同じ構造を持つ。

さらに、これは比喩ではなく、そもそもオリンピック自体が古代では軍事訓練であり、軍事力の測定を目的として誕生したのだ。紀元前のギリシャ、ローマ時代のオリンピックでは、十種競技とレスリング、パンクラチオンなどがあったという。レスリングとパンクラチオンはズバリ、格闘技なので説明不要と思うが、問題は十種競技だ。

100メートル走、走り幅飛び、400メートル走、1500メートル走、110メートルハードル、円盤投げ、砲丸投げ、槍投げ、走り高飛び、棒高飛びの十種。なんと今でもオリンピックの陸上種目のメイン種目、十種である。

では、古代のギリシャ、ローマ時代になぜこんな能力を磨く必要があったのか? 古代の戦争では敵の城まで走って近づき、途中の障害物は飛び越えて、近づいたら、槍や、石の円盤、砲丸などを投げこみ、再び走って帰ってくる。場合によっては、壁を飛び越えたり、棒を使って城に浸入する。このような実戦力が求められた。その能力を競い合わせ、磨かせるのが、スポーツの祭典の目的だったのである。

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それは古代のオリンピックで、近代オリンピックのコンセプトは違う。オリンピックはあくまで「平和の祭典」であり、「参加することに意義がある」と多くの日本人は思うかもしれない。では、参加することに意義がある、と演説し、近代オリンピックの父と言われたクーベルタン男爵は、20世紀にどんな新種目をオリンピックに入れたのか?

それが近代五種である。射撃、馬術、フェンシング、競泳、マラソンである。一体なぜこの五種目なのか? オリンピックの武術性を理解しないと、この五種の必然性は見えてこない。

19世紀、フランスの騎兵が戦場から重要書類を配達するために大活躍したエピソードがある。彼は戦場を馬に乗って駆け抜け、迫り来る敵を銃で撃ち払い、馬で障害を乗り越え、さらに馬を捨て、川を泳いでわたり、敵と剣で戦い、走って逃げ、無事、書類を味方に届けたのだ。

近代五種は、この騎兵が発揮した五種の実戦力を競技化したものだ。クーベルタン男爵は、古代の十種競技より、さらに今日的な実戦力を磨くための競技が必要であると思ったのだ。

日本では「参加することに意義がある」という表面的な言葉だけが知られ、あたかもそれがオリンピックの精神のように誤解されている。おそらく、日本以外のどの国も本音ではそんなことは思っていないだろう。オリンピック精神を語ったと言われる当のクーベルタン男爵でさえ、オリンピックの本質が戦闘訓練であることは看破していた。

より実戦的に、より安全に、より一般ファンにアピールするように。『巌流島』が公開検証を重ねて追い求めたテーマは、実はそのままオリンピックの通底を貫くテーマでもあった。

オリンピックとは、ギリシャ、ローマ時代から続く、『巌流島』だったのである。