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巌流島は異種武道戦! 本来ならば対戦カードも発表すべきではない!

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7月5日(火)のブロマガ………お題「異種格闘技戦の醍醐味と矛盾」

文◎ターザン山本(元『週刊プロレス』編集長)

文◎ターザン山本(元『週刊プロレス』編集長)

 

「異種格闘技戦」という言葉は前から言い続けてきたようにあれはA・猪木の専売特許なのだ。だからどんな異種格闘技戦も猪木にしか似合わない。つまりそこにあるのはプロレスラーがプロレスのリングで格闘家と試合をする。それを称して異種格闘技戦という。

猪木以外のプロレスラーが格闘家と試合をしても意味はない。興味ない。つまり猪木がプロレスラーの代表としてプロレスの強さを証明するために格闘家と試合をする。それが異種格闘技戦なのだ。完全なプロレス界言語なのだ。

普遍的概念ではない。ここに最大の矛盾がある。猪木が生きた時代ではどんなにプロレスの興行が繁栄しても社会的には認知されたジャンルではなかった。広告として一部上場企業がスポンサーにつかない。朝毎読産経の一般紙にはプロレスは報道されない。まあ、それは今でも変わっていないが。そういう差別されたジャンルとしてのプロレスを猪木は誰よりも苦々しく思っていた。

それを逆転させる唯一の方法として考え出されたのが異種格闘技だった。これなら新日本プロレスを放映するテレビ朝日もスペシャル番組の枠を取った。柔道五輪二冠のウイリエム・ルスカとやった異種格闘技戦では一般紙も報道した。それはプロレスのリングでなければならない。格闘家と闘うのはプロレスラー、猪木でなければならない。それが異種格闘技の定義なのだ。

それ自体がもうプロレスファンのためにあるもの。だからプロレス界の外でははっきり言って通用しない。なぜなら少し考えたらすぐにわかることなのだ。MMAの世界では異種格闘家同士が試合することが大前提になっている。それをあえて異種格闘技戦とは誰も呼ばない。呼んだら笑われる。バカにされる。いや、MMAでは異種格闘家という概念そのものがすでに無意味なのだ。

技術体系のフォルムが完成されたからだ。異種格闘技戦はこうして今や古き良き時代の過去の遺産となっている。『巌流島』にプロレスラーの参戦がなかったら、それは異種格闘技戦という言い方はすべきではない。猪木の生き方を受け継いだ人間だけに異種格闘技戦という言葉は与えられる。そういう人材、後継者はいない。今までもいなかった。

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だから『巌流島』は異種武道戦と呼ぶべきなのだ。格闘技におけるジャンルの違う者がMMAとは違う闘い方をして勝負を決する。それを異種武道戦と定義する。武道では彼が相撲出身であるとか、カポイエラの選手であるとか、キックボクサーであるとかはいっさい関係ない。ひとりの人間として個としての存在が問われるのだ。闘うものとして生と死の意味を自らに問い掛ける。武道とはそういうことなのだ。

だから厳密なことを言うとカードをあらかじめ発表したら武道ではない。それはスポーツになる。相手の特徴、長所、欠点を前もって研究、検討出来るからだ。武道の世界ではいつ、どこで自分が何も知らない相手と闘うことになるかわからない。その不安と恐怖。それが武道の最大の魅力。ダイナミズム。そこにはルールなどない。生きるか? 死ぬかしかない。人間の生存条件の原点でもある。

よって『巌流島』における究極の試合はファンにカードを発表しない。X対Xと発表する。さらにいうならそのX2人の選手にも当日、入場するまで対戦する選手がどんな相手なのか決して教えない。まあ、その条件で試合をする選手がはたしているのか? 大きな問題、テーマになる。しかし武道とは本来、そういうことなのだ。

いつかそれが『巌流島』で実現することを願ってやまない。1試合でもいいのだ。それをやったら世界は劇的に変わる。私は時代はもうそこまで来ていると考えているのだ。